【金沢→七尾】
武士の明治維新の様子を「武士の家計簿」の記述で読み、当時の金沢町人が気になりました。家の中にあるスクラップを探していると、以前何回かブログで取り上げた「梅田日記」の著者梅田甚三久(能登屋甚三郎)の文書に上司の御扶持人十村に対して上申した賃上げ運動に関する資料がありました。
(今の浅野川・梅田三久は左岸の並木町に住んでいたそうです。)
(梅田日記:約140年前の金沢町人能登屋甚三郎(明治4年2月梅田甚三久に改名)が、書き残した日記。生活には年間1560目必要な時代に600目の薄給ではあるが、副業で生活費を補いながら、結構、豊かに過ごして居る様子が書かれています。)
資料では、そこに書かれているものだけで明治初期の庶民の暮しぶりが分かるというものではありませんが、万延元年(1860)から明治4年(1871)までの約10年間ほぼ毎年2回ずつ上司御扶持人十村に賃上げ嘆願を続けた文書で、17通の薄墨切紙に書かれたものを「梅田日記」の著者若林喜三郎氏が翻刻し、さらに現代文に訳され「加賀藩史話」に載せられていました。当時の混乱する財政下、庶民がおかれた状況や背景が少しだけ垣間見ることできます。
賃上げ運動といっても、今みたいに団交やストライキなどが行なわれてというのではなく、只々、上司の御慈悲にすがる嘆願の繰り返すだけだったといいます。一日の仕事が終り一同、料理屋などで会合の後、うち揃って十村の宿所に行き、おそるおそる嘆願書を提出したそうです。
(梅田甚三久(能登屋甚三郎)は町人ですが、西町門前にあった御算用場内の十村詰め所に勤め、農村支配や農政、年貢収納などを務める扶持人十村の金沢詰めの代わりをする「番代」の手伝で「番代手伝」という補佐役(事務職)をしていました。)
はじめに嘆願書が出された万延元年(1860)は、安政7年の3月井伊直弼が暗殺され、その月の18日が万延元年で、秋には横浜が開港し、日米修好通商条約でアメリカ公使ハリスの為替レートに対する無理解と幕府の無策から物価は、殺人的な高騰をまねき、その原因が分かったものの、そのまま明治になっても物価上昇が止まらなかったといいます。
(一般的にいわれているのは、幕末、江戸の裏長屋の行商人が1日300文で生活できていたのが、500文稼がないと生活が出来なくなり、物価が益々高騰し、結果として、日米修好通商条約での幕府の無策が、徳川270年の崩壊に繋がったという学者もいるそうです。)
若林喜三郎氏の記述に戻りますと、当然ですが明治になった金沢でも物価の高騰が続き、明治2年(1869)7月には米価が上がるので、甚三久等は現物支給を申出、叶えられるものの翌明治3年(1870)には米価は急落、しかし、その他の生活用品が高騰するという状況に陥り、現実的には、甚三久等は、町人であっても給与の基準が米価におかれている農政の末端に繫がる番代手伝は、下位である現銀支給の小使より賃金が安くなるという現象が生じています。
少し時代が遡りますが、慶応2年(1866)の嘆願書に、家計の収支見積書を参考資料として添付しているものによると、収入600匁に対し1560匁の支出、960匁ばかり、“年々不足二相成候”とし、文化費や交際費は「家内之者余稼」で賄うのが前提として入れてはなく、生活費の支出が給料の約2倍半、不足額が約1倍半。残りは家内のバイトで賄っていたものと思われます。
(嘆願書には余稼(バイト)があまり出来ないと書かれていることからも家内だけでなく自身も適当な収入源が有ったことが窺せますが、具体的な話は日記にも書かれていません。)
そして、賃上げ運動が終わるのは、明治4年(1871)廃藩置県で行政機構の変革から、配置換えが行なわれためか、あるいは失職した結果であったものと思われます。甚三久は不惑の40歳、金沢去り能登の七尾に移住しています。
(振り向けば未来、超インフレが、やがて松方デフレへ、時代の翻弄される庶民!!決して昔話ではないのかも・・・。上記は、ほんの触りです。詳しくは下記参考文献をお薦めします。)
参考文献:若林喜三郎著「加賀藩史話」発行1988年9月・能登印刷株式会社出版部