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油瀬木から子守川股地蔵尊まで《鞍月用水①》

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【犀川上菊橋上流右岸→鱗町】
鞍月用水の取水口は、犀川上菊橋上流右岸にあります。藩政初期に改修されといわれていますが、何時頃から流れていたのかは定かではありません。記録にあるものは油屋(坪野屋)与助が正保年間(1644~1648)に菜種油を取るために犀川に堰を設け、水量を豊富にし、辰巳用水の支流が合流する地点近く(現在油車の石柱辺り)で水車を回したことを現在も竪町にある多田商店の先祖油屋源兵衛が書いたというものが有るだけだそうです。





(現在、犀川油瀬木改修工事中)

(油車の石柱には、油屋源兵衛の書いた与助のことが刻字されています。)


鞍月用水は、藩政期より柿木畠の御厩橋で西外惣構に合流し、一部の区間柿木畠から枡形を経由して小橋までが金沢城の外堀(西外惣構)に利用されていました。上流では藩政期の製油に使われた水車が明治に入り精米、製粉に戦後まで利用され、市中長町では明治期製糸工場の動力として水車に利用され、他、染物の糊落としにも利用されています。そして今も昔も灌漑用水として下流の田圃に水を注いでいます。


(竪町の多田油店の由緒ある五葉松)


(現在の灌漑面積は129ha。旧石川郡鞍月から大野川へ、大野用水と合流し樋俣用水、木曳川から旧石川郡大野庄の田圃を満たします。)



(改修中の油瀬木、取入口完成予想図)


犀川上菊橋から約400m先に現在改修中の「油瀬木」があります。藩政期は竹蛇籠を組んで、10数隻の石舟を浮かべ取水したといいます。明治の記録では、竹蛇籠は約4mの長さのものを3重積みにし、約10mのものを枕にして使用していたといわれています。


(取入堰は「油瀬木」と呼ばれていますが、油は油屋の意味か、瀬木は“堰(せき)”の当て字でしょうか・・・。)


(取入口)

取水口は、もともとは木造で、後に石造に、現在はコンクリートと鉄で造られています。藩政期には取水口の水門には番人がいたようですが、明治になり廃止されたといいます。




(城南の通り・巨木は藤棚白山神社)


現在、鞍月用水は取入口からすぐに暗渠になり、しばらく城南の通りの下を流れる用水に掛かるコンクリートとアスファルトの道が続き藤棚白山神社へ、さらに進みやがて菊川1丁目へ。


(藤棚白山神社)


(藤棚白山神社は、明治18年(1885)の犀川の大洪水で、鞍月用水取入れ口の少し上(現城南1丁目)にあった旧藤棚の社が押し流され漂着したところの再建されたもので、旧地には地蔵堂と石碑が残っています。)



(永順寺)

(菊川放水門)


鞍月用水は、菊川1丁目辺りから開渠になります。付近の永順寺は真宗大谷派で元の寺号は徳善寺で現在地には享保年間(1716~36)以降に移転したといわれていますが、後に小立野土取場にあった永順寺と併合し改称されました。「かがみ橋」から家々の間を抜け菊川放水門、長柄橋へ、やがて平木屋旗店の裏を抜け幸町に繫がります。



(長柄橋)

(永順寺)


(平木屋旗店)

(菊川見て歩きマップ・平木屋旗店の塀)


用水は、「主馬一橋」をへて、幸町の宝憧寺前から再び暗渠になり、慶覚寺前の旧道下を進みや旧山田屋小路の石川県幸町庁舎土塀下だけ開渠に、鱗町交差点の暗渠では辰巳用水分流の勘太郎川と合流します。



(宝憧寺前)

(旧道)

(慶覚寺前)


(旧山田屋小路)

(石川県幸町庁舎)

(鱗町交差点)


(地蔵堂)


合流地点には、鱗町子守川股地蔵堂があります。かって用水では子ども達の川遊びが盛んで、時には流され亡くなった子もいたそうで、その霊と安全を祈願し、昭和の初め片町に住む人が地蔵尊を寄贈しました。後に近所の人によって祠堂が造られ現在に至っています。



(地蔵堂の解説)


参考文献:笹倉信行著「金沢用水散歩」十月社1995/4/20出版など


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