【鱗町→里見町】
昔々、犀川は中州(河原、中の島)があり二筋になっていて片方が鞍月用水だったと聞きますが、全体がよく掴めないので、調べて見ると、藩政初期まで、犀川は今の本流の他に鞍月用水の取入口辺りから今の香林坊橋、木倉町、旧塩川町、旧下伝馬町、旧元車町へ流れ、新大豆田町辺りで再び一筋になり流れていたことが分りました。今の竪町、河原町、片町は、犀川の中州で、鞍月用水側の流れも香林坊橋まで人間が開削した用水ではなく自然河川だったそうです。
寛永の頃に一筋にまとめられ、今の犀川になります。寛永8年(1631)の大火のあと、藩の命で坂井就安により本格的に屋敷地となったと伝えられています。二筋だった頃の中州は、洪水があれば水没し鞍月用水側には必要な水量しか流れず、本流に洪水のすべてが流れるので、中州は一般の住居地として利用出来ず、そのため芝居小屋や遊興小屋など一時的に利用する形態の施設が集まる場所となっていたらしい。
(坂井就安は、「太閤記」の著者として有名な小瀬甫庵の長男で、元和元年(1615)に3代利常公に200石で召抱えられ、犀川川上の河中を掘り一筋にし、堤防を築き河原を町地にしました。寛永15年(1638)に歿します。)
少し脱線しましたが、本題の鞍月用水に戻します。鱗町で勘太郎川と合流した用水の最初の橋が牛右衛門橋です。この橋の近くに藩士岩谷牛右衛門屋敷跡が有ったことから牛右衛門橋といわれたそうですが、用水が西外惣構の堀に繫がるので、重要な橋として橋番人が居たそうです。
(牛右衛門橋と旧茨木町)
(油車と油屋の由来が刻字された石柱)
この辺りは藩政期から油車と呼ばれ、前回にも触れた油屋があり、水車を回していました。菜種から油をしぼる前に菜種を煎る作業に必要な動力を得るため、水車が利用されていたことから地名を油車といったのだそうです。今、水車は有りませんが、あの昭和の住居表示変更にも耐え?町名は町域も変らず「油車」として残っています。
行灯や灯明の藩政期、油屋は重要な商売で、この辺りには、かなりの油屋が水車を構えていたと思われますが、油屋としては大正初期まで水車を使って菜種油をしぼっていたそうですが、水車は、油屋だけではなく製粉や精米にも使われ、大正の頃まで3つや4つの水車が回っていたそうですが、電力に押され昭和15、6年を最後に消えてしまったそうです。
私もこの辺りを始めて通った昭和30年代のはじめには、当時としては広い道に沿った用水に小さな橋が架かり、用水の向こうに大きな工場のような町家があり、通る度に往時の面影を感じていたのが思い出されます。
丸田橋から、用水は人家の裏へ、この辺りは、今、本多町3丁目の1部ですが、藩政期は2500石の茨木氏の屋敷跡など用水沿いに武家地が続き、おかち橋、柿木畠一の橋、里見橋、あかねや橋へ。あかねや橋は5代藩主綱紀公が、但馬から金沢に招いた茜屋理右衛門がこの用水で茜染めを洗ったことから名が付いたといわれています。
染物といえば、昔、この辺りの鞍月用水で友禅染の洗いをしていたそうです。今も昔からの立派な建物の染物屋がありますが、別のところで水洗いをしているそうで、この時期、用水に木蓮が被い長閑に流れています。
(里見橋を渡ると里見町の染物屋の長屋門)
今から30数年前に読売新聞社金沢総局著で能登印刷が発行した「金沢百年 町名を辿る」には、当時この辺りで染色業をなさっていた方が、染物の話しではなく、用水を暗渠化して駐車場にする話しが住民から上がり、その理由として“用水があり細い道で安心して歩けなくなる”とうことだったそうですが、結局、暗渠化が実現しなくなり「ホッとした」ということや“蛍”が戻ってきた話しが綴られています。
今、蛍は?いずれにしても、この辺りはあまり知られていなくて、そぞろ歩きが似合う、金沢らしい昔がある・・・そんな町です。
参考文献:城下町金沢学術研究1「城下町金沢の河川・用水の整備」金沢市2010年3月発行・笹倉信行著「金沢用水散歩」1995・4・20十月社発行・読売新聞社金沢総局著「金沢百年 町名を辿る」能登印刷1990年7月発行。