【香林坊→長土塀1丁目】
鞍月用水は、香林坊橋から今の中央小学校(旧加賀八家村井家)の東の境まで金沢城の外掘の西外惣構の堀と共用し、西外惣構の堀は枡形、小橋に向かって北進しますが、鞍月用水は小学校の校舎に添って左折し西へ流れます。やがて大野庄用水と合流したり離れたりして幾筋かに分かれ灌漑用水として旧戸板村、旧鞍月村、旧弓取村の田圃を潤わせています。
今回は、香林坊橋、右衛門橋(よもんどはし)、尾山橋、四ッ屋橋、鞍月橋までを下りますが、この区間は、以前にこのブログで紹介した「史跡金沢城惣構跡・西外惣構と惣構堀」と、ほぼ重なるので、一部重複しますが、なるべく前回書けなかった歴史的事実や伝説、今の様子を拾ってみます。
(参考:西外惣構については、「史跡金沢城惣構跡・西外惣構と惣構堀」)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10624092005.html
香林坊橋を過ぎると、香林坊109が出来るまでは、鞍月用水は開渠でビルの脇を流れ、用水沿いには柳が植えられ、今も見られる「明暗を 香林坊の 柳かな」の小松砂丘の句碑が香林坊橋の欄干と対になり戦後の香林坊の情景を伝えていました。香林坊橋の次ぎの橋は、香林坊上の映画館街と香林坊下の映画館街とを繋ぎ朱塗りの欄干の橋が架かっていました。橋の名はよく憶えていませんが、調べていたら「賑橋」とありましす。
(鞍月用水と大野庄用水)
昭和30年代の映画全盛の頃、香林坊上(現香林坊109)の大神宮さん(後、焼き鳥の屋台村、パチンコ屋)の周りに松竹座、旧金沢大映(スメル館)、スカラ座(立花座)が、時代は下り劇場名は忘れましたが、富山合同興業が進出して出来た映画館がありました。
(長町川岸界隈)
香林坊下には、高校生の頃、裕次郎の映画が掛かると欠かさず行った劇場やその頃出来た洋画専門館のパリー菊水が、後には東映と日活、大映の直営館が軒を連ねていました。現在はすべて駐車場に変り、当時の賑わいも情景すらも忘れ去られています。
(藩政期のこの辺りは、武家屋敷が建ち並んでいたことを思えば、百数十年も経れば裕次郎も映画も映画館も記録には残っていないかも・・・。)
今は香林坊109を囲むように開渠になった鞍月用水も、かっては用水の上に八百屋やおでん屋などが立ち並び、周辺には飲み屋やバー、雀荘などもひしめき、いつも興奮気味で、その橋「賑橋」を登ったり下ったりしたのが蘇ります。どうも水路は「賑橋」から暗渠になり、その上が商店になっていて、当時は、水路が何処へいったのかは、気にも留めず、毎日、行く当てがなくても橋の周辺をうろついていました。
(あぁ~バイトや遊び帰りによく行ってお風呂屋さんは今のどの辺だったのだろうか・・・)
右衛門橋は、今も「よもんどはし」と呼ばれています。どうもこの橋側に藩士富田右衛門という人の邸宅があったことから“右衛門殿橋“といわれるようになったそうですが、「うえもんどの」ではなく「よもんど」と呼ばれたのか、昔、古文書教室の先生に聞かれたことがありましたが、先生も知らないのに私が・・・と思ったことが思い出されます。今も橋にはそのように書かれています。
(村井家「金沢製糸場跡」現中央小学校)
何時頃から有ったのかは定かではありませんが、元禄6年(1693)の士帳には「右衛門殿橋」と、また、金澤橋梁記には「よもんどの橋」長町四番丁高なりと有ることから、17世紀には、すでに惣構にも橋が架けられていとことが分かります。
流れは尾山橋から四ッ屋橋へ。古地図によると四ッ屋橋は村井又兵衛家の屋敷前に架かる橋で、屋敷の前には広見になっていたことが分かります。水の流れは、現在、鞍月用水の石柱のあるところで、左に折れ、北に進み村井家の屋敷のはずれにある鞍月橋に至ります。
村井家は、明治の廃藩で屋敷を毀し退去しますが、屋敷跡は明治7年(1874)鞍月用水の豊富な水を利用し水車を廻し、その動力で、当時、官営富岡製糸場につぐ規模だったという金沢製糸場が創設されました。
(少し長くなりましたので、金沢製糸場は次回に・・・。)
金沢市発行の(金沢用水めぐり)より
参考文献:笹倉信行著「金沢用水散歩」1995・4・20十月社発行・読売新聞社金沢総局著「金沢百年 町名を辿る」能登印刷1990年7月発行・森田平次著「金澤古蹟志」ほか