【長町1丁目】
藩政期、長町界わいの西外惣構は城側も外側も武家地で、城側には土居が盛られ、雑木竹藪などの緑地帯が設けられていていました。明治維新で惣構の緑地帯は宅地化され堀跡だけが残り、その堀沿いを長町川岸と名付けられました。明治の入り堀沿いにあった大身の村井家(中央小学校)や長家(三谷産業、玉川公園)も天皇に奉還され、後、この地が金沢の近代工業の発祥の地になります。
(左側が金沢製糸場跡・四ッ屋橋「倉庫精練(株)跡」・現中央小学校)
明治7年(1874)3月、村井家の跡に、県内は初の近代的工場が創設されます。繰糸機が100台、女工200余人が従事し、豊富な鞍月用水で水車を廻す近代的な工場で、国内では官営富岡製糸場に次ぐ規模の工場だったといいます。後に2代目の金沢市長になる長谷川準也と弟の大塚志良が士族授産と殖産興業のため民営で創業しました。
工場の開設には、金沢の大工津田吉之助が富岡製糸場に派遣され、製糸機械の製作法を学んでいます。津田吉之助は、代々続く大工で当時長谷川準也家に出入りしていました。字も読めず、そろばんも出来ないけれど「どんな何題や明細な仕事を命じても、いまだに、出来ないと断った事も、仕損じたことも無かった」といわれた人物だと伝えられています。
(吉之助は。明治5年(1872)に富岡の製糸工場に行き、機械の見取図を描き、帰って普通の大工や鍛冶屋を集めその図面を見せ、自分の工夫も加えて精巧の機械を組み立て、金沢製糸工場に据え付けています。)
(金沢製糸場が水を引いた鞍月用水)
工場の運営は、士族の婦女を女工として従事させ、失職の士族に桑の栽培と養蚕を奨励していますが、その頃の石川県産の繭は少量で粗悪であったため機械織りには適さず、群馬、長野から買い付ける必要があり、また、生糸の知識も経営能力にも欠けていたことから、全国的には好況であるにも関わらず損失を重ねたといいます。
(工場内の水車)
明治8年(1875)ニューヨーク駐在の副領事であった富田鐵之助は、米国絹業協会に対し日本産生糸の実物見本を送り、品質を問い合わせていますが、その回答の中で、金沢製糸場の生糸は、製糸の性質は上、綺麗で節がなく繊度も揃っているものの、細すぎてアメリカ市場には向かないと伝えています。
華々しく創業した金沢製糸場も「武士の商法」というか、準備不足の素人経営で、明治12年(1879)の生糸価格の下落を契機に解散に追い込まれます。その年、官貸金を得て操業を続けますが、ついに明治18年(1885)に石川県の直轄となり、3年後に創業から10数年、明治21年1888)閉鎖されます。
(名誉のために付け加えておくと、金沢製糸場の創業は、明治10年代後半から県下の繭の生産量と品質が高まり、女工の製糸の技術力も向上し、以後、養蚕業や絹織物業が発展するなど、後の石川県での近代産業の基礎を築いたことは確かです。)
(中央小学校横の鞍月用水)
後年、当時大蔵民部省官吏として富岡製糸場の建設に尽力した渋沢栄一は「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した側面もあり、日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と書かれていることか見ても、素早い長谷川らの行動は、目下の急務である士族の授産という大仕事を抱えていたとはいえ、先見性はあるが、鼻っぱしらの強い加賀ッポ(士族)の負けん気とともに危うさも見え隠れします。
工場内の川は鞍月用水から水を引き込んでいます。
余談1:長谷川準也と大塚志良は士族授産と殖産興業を図るため、金沢製糸場以外にも、明治10年(1877)に金沢撚糸会社、金沢銅器会社を相次いで設立し、明治11年(1878)、北陸巡幸で金沢を行幸した明治天皇は金沢製糸場を始めとしてこれら3社を視察し、金100円を下賜しています。
余談2:吉之助は「からくり」や塩の製造法改良など広範囲に渡り業績を残したといいます。尾山神社の神門も吉之助の設計です。富岡に行った時、数日東京に足をのばして「第一国立銀行本店」の見学をしているので、この銀行の高い五層建の上に“乗せた望楼”をモデルにしたのではないかと思われるくらい、よく似たものだったといいます。吉之助の実子の津田米次郎は、“津田式自動力織機”を発明していて、今も、金沢のある「津田駒工業」の創始者津田駒次郎は甥だった聞きます。)
(またいつか続き書きます。)
参考文献:参考文献:城下町金沢学術研究1「城下町金沢の河川・用水の整備」金沢市2010年3月発行・笹倉信行著「金沢用水散歩」1995・4・20十月社発行・読売新聞社金沢総局著「金沢百年 町名を辿る」能登印刷1990年7月発行・「金沢古蹟志」森田平次著・「石川県立歴史博物館展示案内」石川県立博物館発行・ウイキペデアフリー百科事典他。