【向山(卯辰山)・金沢城】
もうすぐ4月25日。蓮如上人の命日といわれていますが、金沢では戦前まで市民がこぞって向山(卯辰山)に登り昼間からドンちゃん騒ぎのお花見をしたと伝え聞きます。4月25日といえば今もそうですが、昔も染井吉野はほとんど散り、遅咲きの八重桜が多少は咲いているという、花見の盛りはとうに過ぎていたはずですが・・・。
(木倉屋さんの「どんだくれ人生)
独特なタッチの彩色画と軽妙な文章で、金沢の町並みや庶民の暮しぶりを書かれた木倉屋銈造氏の「七百二十日のひぐらし」や「どんだくれ人生」の中に大正から昭和のはじめの蓮如忌のことが書かれています。当時の町人や職人の卯辰山のお花見です。“蓮如さんの山行き”といわれ、前の晩から重箱にありったけのごちそうを詰め、4月25日になると朝の10時頃に、浅野川沿いの道を徒歩でぞろぞろと向山(卯辰山)に向かったと書かれています。
(向山(卯辰山)の“蓮如さんの山行き“は、幕末あたりから盛んになったと伝えられています。藩政期の向山(卯辰山)は禿山で、それまでは藩が登山を禁じていますが、元治・慶応に書かれた町人の日記には、春の山行きや秋の茸狩りのほかに散策コースとして登場します。因みの藩政期の蓮如忌は旧暦3月25日でした。)
”蓮如さんの山行き“は、蓮如上人が「わたしの命日は泣き悲しんでおる必要はない。お前ら大いに遊んで飲んで、1年の苦労を癒してくれ」と言われたことに因んだものだといわれていますが、木倉屋銈造氏の本には、三百六十日の倍七百二十日働く金沢の職人衆は月2回の定休日以外は親の死に目に会わんでもというが”蓮如さんの山行き”にはほとんど人が出かけたそうです。“たまにこんな日がないと「どうしてわしら、生き延びているコッチャ」と、また「その日に仕事をしていたら、他人から笑われる」ともお書きになっています。
聞いた話ですが”山行き“の行事は、日本的習俗で、年に一度、ご先祖と触れ合う機会としての山行きで、それは人間が密かに意識している「山中他界観」に根ざした民俗行事の意味も有るのではないかと分析する学者もいます。いずれにしても蓮如上人の遺言と花見にかこつけた町に住む人々の年に1度のストレスを発散する、無礼講のドンちゃん騒ぎであったのでしょうか・・・。因みに、当時の農村の蓮如忌は、厳粛に法要を行なっていたと聞きます。
(向山)
野宴は、たいそう賑やかなものだったようで、芸者を連れて大尽遊びをする人、花札に耽る職人、職場の主従が打ち揃ったパーティや家族的な席、何時もは浅野川大橋掛作で三味線を弾くお瞽女のばあさんも来て鳴りもの付きのグループなど、あちこちにブルーシートならぬ茣蓙(ゴザ)を引いて楽しんだといいます。当時、茣蓙1枚8銭、七輪15銭、木綿こしの豆腐の田楽20銭と書かれています。
(幕末の一本松)
下山は、カラスが一本松辺りにとび去る頃、帰り道は天神坂から降りる野暮の職人は1人もオランワネ。とあります。茶屋遊び・・・「流連(イツズケ)」「素見(ヒヤカシ)」・・・「レンニョウサン」なりゃこそ!!極楽浄土の十萬億の山遊び、アラゴモッタイナイ、ナンマイダーと木倉屋銈造氏は結んでいます。
木倉屋銈造氏は兼六園のお花見にも触れています。「私らにとって不思議なのは、石川門下辺りで若い人達が飲み食いをやっとることです。ああ、時代やナ・・・。前田のお殿様のお庭先で、昔はああいうことは許されなんだもんです。・・・お上品に静に、純粋に花を観賞するというのが兼六園の花見でした。」そうです。
随分省略しましたが詳しくは、木倉屋銈造氏の「七百二十日のひぐらし」と「どんだくれ人生」を。
参考文献:「七百二十日のひぐらし」著者木倉屋銈造 北国新聞社1991発行
「どんだくれ人生」著者木倉屋銈造 北国新聞社1993発行