【金沢城内】
北陸新幹線の開通を来年の春にひかえ、金沢城の復元工事は急ピッチで進められています。今、第二段階の復元整備工事中の橋爪門の二の門と玉泉丸は、新幹線が開通する来年春には一般公開される予定だそうです。思えば金沢大学が角間に移り、跡地の復元整備が始まってから18年、城内は随分様変わりしました。
(金沢城の復元は、平成8年に金沢大学跡地を石川県が取得、その後10年間、第一段階として菱櫓等の復元を、現在、平成18年に策定した「金沢城復元整備計画」に基づき第二段階の復元整備が進められています。)
(復元中の橋爪門と玉泉丸)
私も10年位前から、散歩コースとして少なくとも月に7日以上は通っていますが、復元された建築物は見れば見るほど、数100年前のデザインとは思えないくらい新しく感じられ、しかも他のお城と比べても独自性が際立っていて本当に昔の建物の復元?と疑いたくなります。
(明治14年の火災前の橋爪門の写真)
(現在復元工事中の橋爪門二の門・鉛瓦はまだねずみ色)
どうも江戸初期、平和な時代を迎へ、その頃に日本で築城された城郭は美観が考慮されるようになり、ヨーロッパのゴジック様式の縦線を意識した装飾過多のデザインとは異なり横の線を重視し、しかも機能的でシンプルなのが新しさを感じさせるのでしょう。
それに加えて「鉛瓦」。瓦を横に並べた「海鼠壁の白漆喰」。珍しい西洋風の垂直を取り入れた「黒い鉄板張隅柱」は、防衛機能優先の建て方でありながら金沢城だけに見られる特徴で、幕末まで二百数十年余にわたり、何度も改修を重ねますが、その慶長期から特徴は、基本デザインとして崩すことがなかったといいます。
「鉛瓦」は、木で屋根を作り厚さ1.8mmの鉛板を張り付けて造られています。少量(0.06~0.08%)の銅が含まれているらしく、銅を添加することにより、強さや硬さ、それに酸に腐食されないための耐酸性を高め、しかも日が経つにつれ白く美しい屋根になっています。かって江戸城や名古屋城にも使われていて、藩政期の古文書には、「鉛瓦を使用したのは名城の姿を壮美にするため」と書かれているそうです。今は金沢城と高岡の瑞龍寺に残るのみです。
(鉛瓦と海鼠塀の模型)
昭和39年(1964)に金沢の郷土史家八田健一氏が書かれた「百万石太平記」の”金沢城の鉛瓦“によると金沢城では、鉛瓦がいつごろから始まったかについては藩の正史にも野史にも全く書かれていないそうです。
八田健一氏が調べたところによると、寛文5年(1665)藩の会所から、銀座の銀座彦四郎、紙屋武兵衛に今度鉛瓦を鋳るので、かねて預けてある”なまり“を別所八右衛門、島七右衛門、渡辺弥三郎、野村四郎左衛門の4人の奉行から話があれば渡すようにという発令がでています。さかのぼれば寛永10年(1640)から10年の間に5回にわたり、藩主または重役から銀座にあてて鉛の販売や保管を命じていることからも、藩政初期、藩で鋳造していた銀貨に鉛が必要だったことが窺えます。
(幕府は、全国に向けて貨幣の私鋳を禁じています。加賀藩でも寛文7年(1667)加賀藩でも鋳造は永久に停止していますが、その2年前の寛文5年(1665)には、すでに鉛瓦の鋳造を命じています)
(復元工事中の橋爪門二の門)
また、鉛瓦の原料はどこから産出されたか分からないが、銀座文書によると、主に越中新川郡の亀谷、松倉、長棟などの鉱山で金銀の採掘とともに付近の方鉛鉱から豊富に産出されたものと察するとあります。
(幕末に建てられた三十間長屋)
屋根が黒っぽいのは、戦後の復元で鉛瓦に鉄分が入ったのではないかといわれています。
いずれにしても、藩政初期それまで認められていた藩での貨幣の鋳造が永久に停止になり、鉛が大量に余ったことで、江戸城や名古屋城で使われた鉛瓦が金沢城でも使われるようになり、やがて江戸城や名古屋城では使われなくなり、現在のおいて金沢城や瑞泉寺だけに残ったという事のようです。
それから後二つ、一つは俗説でいわれている鉄砲の弾丸にするため鉛瓦にして貯蔵したというのは、わざわざ鉛瓦にして貯蔵しなくても他に方法もあり、また、戦時、弾丸に鋳直す労力や技術と時間を考えれば、疑わしい・・・。
もう一つは、明治14年(1881)1月10日の朝、歩兵七連隊の兵士が魚を焼いた火の不始末から旧二の丸からの出火に際し、当時、陸軍ご用達を務めていた尾張町の森八の主人森下八左衛門の談として、二の丸、三の丸に入ろうとしたところ、主要な建物は鉛瓦で覆われていたため、鉛の瓦屋根は猛炎に焼けただれ、屋根の雪といっしょにすさましい勢いでなだれ落ちる危うさに一歩も進むことが出来なかったと書かれています。
(正面の石垣は、20年ほど前の橋爪門続櫓の石垣)
参考文献:「百万石太平記」八田健一著 石川県図書館協会 昭和39年7月発行ほか