【金沢城内】
金沢城建築の特徴の一つ、日本の城郭建築では極めて珍しい西洋風ともいえる垂直の黒い鉄板張の隅柱があります。現存する日本の城ではここ金沢城だけのものですが、この意匠について伝えられているのは、戦国時代、京都に建てられた南蛮寺の黒い隅柱と似ているところから、キリシタン大名で後に加賀藩前田家に26年間仕えた高山右近が関わったのではなかといわれています。しかしそれを証明する史料は現在のところ見つかりません。
元来、城郭の柱は防火上、壁に塗りこむのが普通ですが、黒い鉄板張りにして外に出すことで西洋風の垂直線が際立ち、白壁と海鼠塀がバランスよく引き締まり、美しさ中に力強さが感じられ、意匠としては現在でも昔のデザインでありながら新しいセンスが光ります。
京都の南蛮寺は天正3年(1575)に建てられたといわれていますが、宣教師が書き残したものによると、当時、南蛮寺は日本人の設計で日本人の大工で建てられることになっていたとされ、日本風でありながら、天に向けて高くそびえる西洋の教会建築が求められたといいます。
(全国の主要な城を探しても類例のない金沢城独特の「黒い隅柱」と唯一共通するデザインと雰囲気を、京都にあった南蛮寺の絵図にみることができます。都の南蛮寺図扇面に見える京都の南蛮寺、神戸市立博物館所蔵、google画像)
(藩政期に建てられた三十間長屋)
京都の人々は高い建物は「上からのぞかれる」と反対しますが織田信長の意向で3階建ての教会が建てられたらしく、高山右近が設計から木材調達まで献身的に働いたと宣教師のフロイスが書いているらしい。その後に右近は前田家に仕えるようになり、金沢城の築城に関わったといわれています。
しかし、右近が金沢に来たのは天正16年(1588)入城5年目の前田利家公が本格築城を進めている最中で、天守閣は天正14~15年(1586~1587)に完成していたといわれ、右近が金沢に入る前のことで、右近は無論この初期築城には関わっていないことが分かり.ます。当時の意匠は今となっては定かではありませんが、まだ戦時でもあり、後の白を基調にした優美なものではなかったのではと推測されます。
右近が築城に関わるのは、加賀藩の古文書によると文禄元年(1592)年の文禄の大改修ころからとみられ、慶長7年(1602)金沢城本丸の天守閣が落雷で炎上し、翌年天守閣に替わって3階櫓が建てられていますが、その改造には高山右近の指揮で再建されたものと思われます。
10年ぐらい前に発見された3階櫓の絵図面に海鼠壁や黒い隅柱らしきものが描かれています。となると金沢城独特の黒い隅柱のデザインは右近によって南蛮寺デザインが引き継がれたのではと希望がもててきます。そして、その後あらゆる城内の建物に使われるようになったのだろうと推測できます。
現存する天明7年(1787)再建の石川門、文化5年(1822)建築の成巽閣辰巳長屋、安政6年(1858)建設の三十間長屋などは今も残り、二の丸菱櫓等も19世紀初頭に再建された建物を正確に復元したもので、それらのルーツをたどれば慶長期に高山右近が関わったと推測される金沢城の統一イメージが忠実に受け継がれています。
(註:右近は江戸初期、フイリピンの追放されていて、詳しい史料は海外でわずかに残る以外、国内ではきわめて少ないという。)
参考文献:金沢城の統一デザインほか
www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou4/kojyou4_7.html