【金沢城内】
前回、他の城にない金沢城の特徴「鉛瓦」と「隅柱」を書きましたが、もう一つ白漆喰との調和が美しい「海鼠壁」があります。「海鼠壁」は、江戸時代の初期に武家屋敷で始まったもので、土蔵などの壁塗りの様式の一つです。壁面に平瓦を張り、固定のため目地に漆喰を“かまぼこ型”に盛り付けて塗られたもので、その形が「なまこ」に似ているので「海鼠壁」と呼ぶようになったといわれています。
金沢城の「海鼠壁」は、防火に備え作られたもので、下から6割ぐらいまで地面に平行に積まれた「馬乗り目地」という古くからの様式で、美しい幾何学模様を描き出し、上部の油漆喰の白壁と調和し、本来、防火目的に作られたものでありながら、その色彩や形は整然と美しい、まるでデザインを優先に作られたようにも見えます。
歴史を遡ると、金沢城は慶長4年(1599)頃まで整備されますが、その後再三火災に遭い、そのたびに再建されています。慶長7年(1602)から安政6年(1859)まで約255年間に、慶長7年(1602)、寛永8年(1631)、宝暦8年(1759)、文化5年(1808)の4大火事を含め56件の火災が記録されているそうです。冬には落雷が、春先から初夏にかけてのフェーン現象や火の不始末などによるもので、その都度大変な被害を蒙っています。
そのため、火災による延焼を防ぐ備えから御壁塗や左官棟梁は御大工、屋根葺棟梁、安太と共に重要な役割を担っていたといわれ、現在、残された左官の仕事を見ても「海鼠壁」の他、軒先の波形塗りや軒裏には油漆喰の総塗籠が施されています。さらに金属板で覆われた出窓枠など外部から極力可燃物を取り除く工夫がなされています。
藩政初期の記録によれば、藩より「壁塗手間料」が公定されていて、技能の程度により3段階の手間料が決められていたそうで、大工、木挽、板批、屋根葺より高くなっていたらしい、それらの記録からも江戸時代の初め左官工事関係の技能者は特に必要であったことを窺い知ることができます。
参考文献:「加賀藩大工の研究・建築の技術と文化」田中徳英著 桂書房2008年発行