【長土塀1丁目→方斎2丁目】
鞍月用水は、鞍月橋から玉川公園西側の前の九曜橋へ、次に架かる下九曜橋から斜め左に方向を変えて閑静な住宅街を流れていきます。下九曜橋袂の解説板には、地図入りでこの界隈の歴史が書かれ、用水沿いの遊歩道は「うるおいの道」と名付け、高厳寺まで小路ごとに架かる中川橋、宗叔橋、宗構橋、上三構橋、八千代橋、三構橋が続きます。
最近、市が発行した安政年間の「古地図」を開くと、この辺りは長家の家中町(かっちゅうまち)で、他に村井家、今枝家、中川家、生駒家の家中町が続いています。そこで今回は、家中町や武家生活について少し触れることにします。先ず家中町ですが、下屋敷ともいい、前田家の人持組3000石以上の家臣の家臣(陪臣)が住んだ町でした。
今風にいうと社宅です。大身の家臣には直臣の家臣より禄高が多い陪臣もいて、住むところは身分に応じて区別されています。長家では、上級家臣は今の長土塀1丁目辺りの“上家中”に住み、他は“北の家中”や“あら屋敷”に住むようになっていたらしい。
当時の武家はどのような生活をしていたかというと、直臣も陪臣も俗に「百石六人泣き八人」といわれたそうで、家族6人が手いっぱいで8人になると年中泣いて暮らさなければならなかったといいます。
(下九曜橋)
(下九曜橋より)
(百石の実収納米は約43石。それを蔵宿に預け2%の蔵敷料を支払い、家族の1年分の食料を差引き残り全部を仲買人に売り払う仕組みになっていました。)
(宗叔橋より)
そこへもって、延享2年(1745)6代藩主吉徳公が亡くなって、わずか9年でかってない財政難に陥ってしまいます。原因はまた別に書くことしますが、何時の世も同じで、税収を上げて増大する赤字の解消をするため、藩士から知行米を徴発する以外にはなく、先ずは向こう7ヵ年の間500石以上は10%、以下のものは7%または5%を徴発します。しかし、赤字の解消など、これも何時の世も同じ・・・
悪いことは立て続けに起こるといいますが・・・。宝暦9年(1759)宝暦の大火で金沢の町は焦土と化します。そして明和9年(1772)には3ヶ年に限り藩士の知行15%の割合で徴発することになります。武士の知行米を一時借上がるという名目から”借知“といいますが、実際には藩士の収納米を藩に切り替えるだけで、藩は貸借の義務を負うべくもなく3年が過ぎても停止どころか益々強化されます。天保8年(1838)には、半知借り上げになり、2百石取りが百石に、実質43石になり単純計算ですが1石1両(10万円)とすれば、年収約430万円・・・。2百石取りが”泣き八人”になってしまい百姓以上に搾取されることになります。
(高厳寺)
その頃になると、家中町では、内職が常態化し、従来の「長のリンゴや村井の柑子」といわれた庭の果実だけでなく、手内職が大切な収入源になり、立派に商品として流通していたらしく、長家では、髷をしばる元結が有名で、その元結で”鎧“”兜””お雛様“などの玩具を作り、村井家では、菅笠、竹の子笠の笠当て、今枝家では提灯や凧をこしらえて家計を補ったといいます。
≪参考:旧町名≫金沢の「歴史のまちしるべ標柱一覧」より
旧穴水町:加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた。(長町3丁目・長土塀1丁目)
旧芳斎町(現在の地名は芳斉町になっている):上杉景勝、松平忠直に仕え勇名をはせた青木新兵衛芳斎が、三代藩主利常公に5000石をもって招かれてこの地に住んでいたので、のち、この名で呼ばれた。(芳斉2丁目)
「斉」は齊の略字 斉、齊 - まったくの別字
旧宗叔町:元禄のころ堀宗叔という医師が住んでいたのでこの名がついた。堀家は代々藩医をつとめていた。(玉川町、芳斉1・2丁目)
旧三構:もと高厳寺前といったが、これを光岩寺とも書き、のちに光岩前を略して「みつがんまえ」と呼んだことからこの名がついたといわれる(芳斉1・2丁目)
旧大隅町:加賀藩の老臣、長大隅守の家臣が、寛文期に能登から移り住んだところで、新(荒)屋敷、新家中と呼ばれていたが、明治になってこの名がついた。(中橋町)
参考文献:「百万石遠望」復刻 石川県図書館協会平成5年3月発行