Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

古地図めぐり―金沢・高岡町界わい

$
0
0

【高岡町→南町→上堤町】
高岡町は、延宝年間、安政年間の金沢の古地図や残された記録等によれば、南北に延びる北国街道の石浦町、南町、上堤町、下堤町と東西は西外惣構の間に位置し、石浦町の小路“紙屋小路”から下堤町の小路“中川入口小路”までが町域であったようです。その全域が武家地で、藩政期は、町奉行支配の町地ではないため、長町や彦三、出羽と同じように通称として“高岡町”と呼ばれていたものと思われます。


(東西内惣構は、2代藩主前田利長公が高山右近に命じて慶長4年(1599)につくられせたといわれています。さらに、慶長15年(1611)には3代藩主利常公の命で家臣の篠原一孝が東西外惣構をつくりました。)



(③は今の尾山神社)


延宝5年(1677)の侍帳によると、「高岡町近所今枝内記」「堤町西後中川八郎右衛門」「前田備後近所前波加右衛門」など家臣名の右肩に屋敷の所在地が記されたものもあり、その頃には”高岡町“という呼称が存在したもの思われます。(研究者から戴いた史料より)



(今の尾山神社前)


町の成立は、慶長10年(1605)と16年(1611)の2度に分け、越中高岡に隠居の2代藩主前田利長公が、越中高岡の家臣の引越しを命じます。記録のよると前田美作以下39名の高岡衆が金沢に帰ることになり、その居住地にあてられたことから高岡町と呼ばれたと伝えられています。



(今の日銀横・紙屋小路)




(左側、文化ホール裏が今枝内記屋敷跡)


古地図を見てもほぼ全域が武家地ですが、文化8年(1811)の金沢町名帳の高岡町には、組合頭の表具師で太鼓役者紙屋喜右衛門など7人の町人と割場付足軽藤岡幸作が記載されています。もう一軒の表具師杉本屋善助、白銀細工の水野源六、柄巻師鞘巻屋義兵衛、江巻師並質商売の小松屋長蔵、御医師桜井了元、魚・鳥商売若山屋善四郎が見えます。



(前田土佐守家の屋敷跡門前口47間5尺、南側70間2尺、北側54間3尺)

(加賀八家の解説・前田土佐守家屋敷跡北側にあります。)


安政年間の古地図によると、紙屋小路から中川入口小路までに、藩士の屋敷が約50家あり、その内、人持組が16家、加賀八家の前田土佐守、今枝内記、中村式部など大身の屋敷跡や漢学者毛受三叔の拝領地が見えます。



(漢学者毛受(めんじゅ)三叔の拝領地)

(四ツ屋橋と村井家屋敷跡)


(小堀家屋敷跡)


(中川式部屋敷跡)



(今の武蔵・中川入口小路・左に入ると中川家跡)


≪前田利長公の晩年≫
2代藩主前田利長公には男子がなく、異母弟の利常公を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居します(隠居領は新川郡22万石)。幼い利常公を後見しつつ富山城を改修、城下町の整備に努め、慶長14年(1609)富山城が焼失したため一時的に魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝わる)を築き移りました。城と城下町の整備に努めますが、梅毒による腫れ物が悪化して病に倒れ、隠居領から10万石を本藩へ返納するなど自らの政治的存在感を薄くしていきます。


慶長18年(1613)には豊臣方より織田左門が訪れ勧誘されますが、利長公は、「・・・もし徳川家が秀頼公に対し異心があれば、私は必ず命に従い、隠居領の人数を残らず秀頼公に捧げますが、筑前守(利常)は愚息とはいえ徳川家の婿なので、どう動くかその心中は察しがたい。」と話したといいます。


≪前田利長公の命日は旧暦5月20日≫
慶長19年(1614)、病はますます重くなり京都隠棲、及び高岡城の破却などを幕府に願って許され旧暦5月20日に高岡城で病死しますが、服毒自殺という説も伝えられています。享年53歳。高岡に葬り、のち利常公が菩提寺として国宝瑞龍寺を整備します。


参考文献:「金沢古蹟志」森田柿園著・「日本地名辞典」平凡社・「金沢町名帳」ほか


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles