【金沢・小立野】
宝円寺の寺号は護国山、前田家藩主一族の位牌が安置された前田家の菩提寺で曹洞宗の寺院です。前田家ゆかりの寺院には、前にも紹介した天徳院は曹洞宗ですが、如来寺は浄土宗、経王寺は日蓮宗、寺町の玉泉寺は時宗、氷見の勝興寺は浄土真宗と宗派の違う寺で菩提を弔っていたようです。
(作家イザヤ・ペンダサンこと山本七平は、日本人の宗教観の特徴として「神が人を選ぶのではなく、人が神を選ぶ」と言い、豊臣秀吉は「宗教は八つも九つもあるから、どれを選んでも良い」と書いたものを見たことがあります。また、前田家の女性には日蓮宗に帰依した例が多く見られます。)
加賀藩領内の曹洞宗全寺院の触頭で、前田家から寺領213石を受けていました。前田家との歴史的な関係は、藩祖利家公が越前府中に在城のとき、越前高瀬村の曹洞宗宝円寺に参詣し、住持7代目大透圭徐と懇意になり師壇の関係を結ぶことに始まりました。
(寺領は、当初223石でしたが、元和2年(1616)の検地で213石となっています。)
天正9年(1581)8月。利家公が能登一国15万石の大名に取立てられ七尾小丸山城に城郭を構え、七尾に宝円寺を建立し、大透圭徐に来寺を懇請し開山しました。天正11年(1583)6月、利家公が金沢に入城することになり、そのとき見た「夢のお告げ」により石川門と相対する土地に一大曹洞宗寺院を建立し、七尾から大透圭徐を招聘して開山したのが宝円寺です。
(今の兼六園)
金沢の宝円寺は、開山当時は、今の兼六園の山崎山から千歳台辺りで、以後38年間(天正11年(1583)~元和5年(1619))その地にありました。その間、慶長4年(1599)3月、利家公の葬儀やその3回忌が行われ、元和3年(1617)7月16日逝去したお松の方の葬儀もここで行われています。
小立野の現在地に建立されたのは、元和6年(1620)3代藩主利常公の代に11,600坪の土地を拝領し、七堂伽藍の各種建物が建立されました。後の寛文9年(1669)5代藩主綱紀公が再建、これまでの裏門を表門とし、山号も護国山とします。大伽藍は豪華絢爛なところから「北陸の日光」と称されたといわれていたそうです。
(享保10年(1725)の宝円寺周辺の町家図)
≪宝円寺の祠堂金≫
宝円寺では、大阪の陣の後、加賀藩は戦死者を弔うために宝円寺に祠堂金を寄進します。元和4年(1618)より、この資金で庶民金融をおこなっています。祠堂金とは、位牌を寄託する際に金品や田畑を寄付するもので、その資金を金融に使う事は宝円寺だけが許されていたといわれています。
≪火災で伽藍焼失≫
宝暦9年(1750)4月10日大火で類焼し3年後に再建されますが、明治元年(1869)2月28日の火災で一大伽藍は焼失、現在の本堂は明治初期に武家屋敷(7000石の前田図書邸)を移築して再建されたもので「仮堂」扱いになっています。
≪宝円寺の言い伝え≫
・墓所内には、江戸初期の画聖俵屋宗達の墓と言われています。(断定できる資料なし)五輪の塔、 古い前田家ゆかりの墓、鳥居の付いた前田家の墓、他に明治以後の著名な文化人の墓や顕彰碑があります。
(俵屋宗達の墓と伝えられています。)
(明治元年、前田家は神道に、墓に鳥居が・・・)
・御影堂と御髪堂 秀吉の死後、1599年2月利家が家康を伏見の城に訪ねる際、万一を思い、宝円寺の象山和尚に「画像と髪」託し、後に地中の深く埋めさせたという。
(御影堂と御髪堂)
・庭内には地蔵堂、茶室「対青軒」があります。(対青は、俵屋宗達のいくつかあるが雅号の一つ)
(対青軒)
・福徳地蔵 改作奉行「富永家」が腰元を惨殺し井戸に投げ込んだ。その恨みがたたり、目の見えない子が生まれので、怨念を鎮めるため建立したもの。香林坊の映画街から中央通りの少林寺を経て現在ここにあります。
・昔の本堂の「鬼瓦」500kg、ちなみに金沢五十間長屋の鬼瓦は300kg。
・北陸三十三ヶ所観音霊場札所、金沢三十三ヶ所観音霊場札所「ご本尊十一面観世音菩薩」
(十一面観音は宝久寺のご本尊で犀川神社の本地仏)
・仁王尊像は、桧つくりで天正11年の開創時に寄進されたものと伝えられていますが、明治元年の火災で一体が焼失、一体は亀坂の相撲取り源八が助けた阿像で、現在も火災、災難の尊像とあがめられています。尚、吽像は焼材を体内に納め、地元の方の寄進により再造されたものです。
参考文献:「追想・護国寺宝円寺(曹洞宗)」園崎善一著 平成14年8月発行ほか