【金沢・小立野】
経王寺は、日蓮宗の寺院で、ご本尊は「十界大曼荼羅」です。山号を寿福山といいます。加賀藩祖前田利家公の側室で、3代藩主利常公の生母寿福院(千世・千代保)の開基のお寺です。利家公没後2年の慶長6年(1601)に建立されました。
開山には、寿福院の異母兄滝谷妙成寺14世善住院日淳上人を迎えられ、2世は実家の菩提寺・越前府中経王寺より日淳上人の弟子養仙院日護上人を2世に招き、藩祖利家公の菩提を弔わせたといわれています。
(寿福院と日淳は越前朝倉氏の家臣上木新兵衛の子であり、上木家の菩提寺は越前府中(福井県武生市)の経王寺でした。
(経王寺付近の古地図)
2世の日護上人は祈祷の効験あらたかな僧で、寿福院の護持僧として、度々金沢城内にて若君や姫君がたの病気平癒の御祈祷を勤めたといわれています。
(現在の経王寺参道跡)
(金大医学部校門前・この辺りに経王寺の山門が?)
3代藩主利常公が慶長19年(1614年)藩主になると、寿福院は人質として江戸へ下向。寛永8年(1631年)に江戸で没しました。寿福院は江戸の池上本門寺で荼毘に付された後、経王寺であらためて葬儀が行われ、その直後に、寺は金沢大火で炎上します。正保4年(1647年)寿福院の十七回忌に利常公によって再興され、承応3年(1654)5代藩主綱紀公より寺領50石の寄進を受けます。
(寿幅院の母寿命院の墓)
元禄2年(1689)綱紀公の命により、妙成寺19世興源院日遼上人が、経王寺5世の法燈を継ぎ経王寺を兼帯するようになります。
後に10世の滝谷24世誠峯院日竟上人が身延山久遠寺35世に晋山した歴史もありますが、経王寺住職の妙成寺との兼職は30代183年の間継続されていましたが、明治5年(1872)に妙成寺48世日理上人が兼職を解き、再び専任の住職になりました。
(明治29年(1896)元鶴間町に金沢監獄が新築起工され、明治43年(1910)金澤医学専門学校敷地に収用されて現在地に移転しました。)
平成8年(1996)1月、県道拡張整備事業のため、墓地敷地の約半分を収用され、41世孝道院日澄はこれを機に、仮堂として87年間存在した旧本堂庫裡等を1年間かけて、浄行堂を除くすべて再建、平成9年(1997)6月に寺観を一新しました。
≪球姫葬儀跡発掘≫
平成11年(1999)5月、旧経王寺境内の発掘調査で、3代藩主利常公の正室球姫の葬儀が行われた遺構が見つかりました。小高い灰塚の下に仮説の建物跡とされる6m四方の四隅に深さ1,5mの正方形の柱穴や柱をつなぐ溝、周囲に垣根をめぐらせた柵穴、塚の下に敷かれた白砂が見つかり、大掛かりの葬儀に伴う遺構であることが分かった書かれています。
≪真如院のお墓≫
加賀騒動の悲劇のヒロインとして難を受けた6代藩主吉徳公の側室お貞(真如院殿妙本日融大姉)の墓所(市文化財)があります。(加賀騒動は何れ改めて・・・)
(五重石塔)
≪寺宝≫
寿福院御寄付と伝えられる宝塔絵曼荼羅等三幅対の画像があり、木像彩色河濯明神立像、真如院が生前拝まれた御内仏が格護されています。また、「宝暦第六(1629)暦五月二十九日」の銘が入った五重石塔も有名です。
他
・藩政初期は山崎村の村地、経王寺再建で、村は現在の上野町に移転。上野新村となる。
・藩政期の敷地は約1万坪、現在の金大医学部、金沢美大に及ぶ広大なものでした。
・加賀騒動の真如院や元治の変の千秋順之助一族、明治初期小立野与力町に住んだ本阿弥家 の墓があります。
参考「千秋主殿助範尚と末森の戦い」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/e
ntry-11482199217.html
参考資料:経王寺由来沿革など