【金沢・小立野】
藩政期、浄土宗の触頭の竜宝山如来寺は、開祖覚蓮社岌台文公(きゅうだいぶんこう)が天正年中(1573~1591)越中の増山に一寺を建立し、如来寺と号し、その後、高岡二上山山麓に移転し、さらに金沢の卯辰山麓(現蓮昌寺の場所)に移りました。
(正面に徳川家の葵の紋と前田家の梅鉢紋)
元和2年(1616)徳川家康が逝去され、家康の孫3代藩主利常公の正室珠姫が、如来寺に位牌を立て千部経の転読を命じました。利常公も寛永11年(1634)徳川秀忠の3回忌に位牌を立て法要を営んでいます。明暦2年(1656)には、5代藩主綱紀公の母清泰院(大姫・水戸光圀の姉)が江戸で他界され小石川にある浄土宗伝通院にて葬られ、如来寺に位牌が安置されます。
万治2年(1659)5代綱紀公により現在地が与えられ、寛文2年(1662)伽藍を建立、正月に工事が始まり9月に落成します。寺領は200石を賜り、加越能3カ国の浄土宗寺院の触頭を務めるよう命ぜられます。
(如来寺の将軍家の位牌は徳川家康と東京芝の増上寺に墓所かある2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂が、そして前田家に嫁い徳川系女性の位牌所となっています。)
(平成11年(1999)3月8日の北国新聞記事)
享保3年(1718)4月亀坂から出火。火災に遭い仮堂が建てられます。現在の本堂は約100年後の文化10年(1813)12代藩主斉広公により再建されたものです。平成11年(1999)3月の本堂改築工事に伴い仏像を調べるとご本尊の仏像三体が火災を免れていたことが分かりました。
言い伝えによると、ご本尊「阿弥陀如来像」は、享保3年(1718)の火災で焼失し、現在残るものは全て新しく作り直したものだということでしたが、平成11年(1999)3月の改築工事のとき阿弥陀如来像を分解したところ、光背と台座をつなぐほぞに火災前の「正徳巳(1713)五月二十九日」の文字が見つかりました。
(当時の住職が命がけで持ち出したと思われる阿弥陀如来像は、高さ約180cm重さ約30kg、観音勢至菩薩像は高さ150c重さ約20kg。どちらも木製で、如来像は本体、台座、光背の3つに分解されるようになっていているといいます。)
本堂の建物については、金沢市公式ホームページ「いいね金沢」が詳しい
≪最近の如来寺≫
如来寺では、平成7年(1995)の参道を改修した際に不要になった石を使い20年間、市民らで石仏彫りを行なわれて来ましたが、最近の北国新聞によると、今秋、石仏の数が1000体を超え、これまで国内外延べ400人が手彫りしたことになるそうです。石も当時は旧参道の戸室石を使っていましたが、今は寺が無縁墓の礎石を引き取り、魂を抜き供養を経て使っているそうです。来年春には1000体の満願成就を祝う法要を計画しているそうです。
≪如来寺は≫
・寺宝は絹本着色阿弥陀三尊来迎図。制作は南北朝時代(1300年頃)、金沢市指定文化財。
・東山の蓮昌寺前の通りの一部は、明治4年まで「元如来寺町」といわれていました。
・3月の涅槃会には、大きな釈迦の涅槃図が懸けられ、「団子撒き」が行われます。
・本堂の裏庭の五葉松の樹下にキリシタン灯篭があるそうです。
・夏季の正午から3時まで「ひるね寺」としてお寺を開放。etc:
参考資料:如来寺の資料と北国新聞の記事など