【金沢・小立野】
安政期の金沢絵図では、天徳院の敷地が一部欠けていて全体図が分かりませんが、資料等によると当時の天徳院は4万坪という壮大な敷地の中に建ち、小立野にある前田家所縁の他の3ヶ寺はいうに及ばず竹沢御殿(現兼六園)より大きいといわれています。
(17世紀後期に作成された延宝金沢図も一部欠けていますが、図の堀の内に、奥行き190間と189間、間口150間と書かれていています。墓地抜きなのかも・・・。)
天徳院は、元和9年(1623)に加賀藩3代藩主利常公が、正室珠姫の菩提のため建立し、元禄6年(1693)5代藩主綱紀公によって明朝式に再建されます。明和5年(1768)2月1日庫裏より失火し伽藍の大半を焼失したが、山門は災を免れ今に至ります。
(寛永元年(1624)家康が崇敬した巨山泉滴大和尚を房州長安寺から招請して天徳院第一世開山としました。)
(延宝金沢図)
寛文11年(1671)珠姫(天徳院殿)の遺骨は天徳院境域より野田山に改葬され、元禄6年(1693)5代藩主綱紀公は4代藩主光高公50回忌供養のために、親交の深かった明(中国)の僧、黄檗宗5代管長高泉性敦(こうせんしょうとん)和尚に委嘱して着工から10年の歳月を要して天徳院の全堂宇をすべて明朝式に造営建築します。
明和5年(1768)の火災で総門、山門、御霊堂、宝蔵などを残して本堂、庫裡その他数多くの伽藍を焼失します。翌明和6年(1769)に、10代藩主重教公がわずか70日間の突貫工事で本堂、庫裡などを再建します。今、綱紀公によって造営された建物は、山門(現在石川県指定有形文化財に指定)を残すのみとなりました。
(天徳院の概要など詳しく知りたい方はPCに多数紹介されていますので参照ください。)
≪天徳院と球姫様にまつわる伝説・伝承≫
珠姫様は、第二代将軍徳川秀忠公の次女として生まれ、名前は珠子、幼名を子々姫。慶長4年(1599)、前田家では藩祖利家公が亡くなり、2代藩主利長公は、初代の遺言に反し、加賀に戻ることになります。その間、世間では「前田家が徳川を討つ」という噂が流れ、情勢を知った利長公は国家老を派遣して、前田家が徳川幕府に刃向かう計画は一切無いことを説明。その証としてやむなく利長公の母、お松の方を人質として江戸に送り、代わりに珠姫さまを嗣子利常の嫁として受け入れることを約束します。
(百万石まつりの球姫様)
(珠姫のお輿入れ道中は1日1里半と決められ、6月末に江戸を下り金沢へ90日間の長旅で、利長公が手取川までお迎えに出た話は今も語り継がれています。また、道中3歳の球姫の駕籠先には酢屋権七が控え踊って見せてご機嫌取りをつとめたといいます。その伝説は、今も百万石まつりで酢屋権七に扮した役者が球姫の車の前で踊ります。かなり前になりますが、静岡県に居られるという子孫の方が天徳院に参詣されたと聞いたことがあります。)
慶長6年(1601)珠姫さま3歳のとき加賀へお輿入れになり14歳で結婚、その後10年間に3男5女を育てられ、利常公の妻として、また将軍秀忠公の娘として前田、徳川両家の融和のために心を尽くされますが、元和8年(1622)春、夏姫さま出産後7月3日に24歳の若さで亡くなられました。
その年の8月8日、城外小立野の地で荘厳に葬儀が行なわれ、遺骨を高野山と金沢に分骨して各々に一寺を設け、戒名の『天徳院殿乾運淳貞大禅定尼』にちなんで、いずれの寺院も天徳院と称しました。
珠姫の子は亀鶴姫、(小媛)光高、利次、利治、満、富、夏の8人ともいわれていますが、実際にお腹を痛めたお子は7人で、次女の小媛は養女で、母も分らなく寺では法名も分らないといわれていますが、前田家は認めていたらしく、2歳で没しています。
(直接、利常公や小媛とは関係がない話しですが、お殿様が鷹狩などに行き、お手付なども有ったらしく、そんなときは印になるものを渡し、子が出来たら申し出るようにいった話も伝わすっています。そんなときでも養女として大切に育てと聞きます。)
藩政時代は前田家から寺領500石を拝領していましたが、明治になり寺領も無くなり、前田家も神式になり、寺は荒廃し維持するのが困難になります。その時、樹木を切り、土地を貸したり売ったりして、今に至っております。(現在7000坪)
珠姫のお墓は寛文11年(1671)にここから、野田山に移されましたが、珠姫の長男で4代光高公が年正保2年(1645)31歳の時、江戸で茶会のあとの酒宴で目眩をもようしそのまま逝去され、遺言により母の地に埋葬され墓が建てられましたが、4代光高公、9代重靖公の墓他も昭和28年(1953)に墓地を小学校にするため、野田山に移されました。
(野田山への移築は、4代9代の藩主以下前田家関係は12人と真如院の2人、4代に殉死した小篠善四郎、浅井源右衛門の16人の墓が野田山の前田家の墓地に移葬されました。3代藩主前田利常公は、万治元年(1658)にご逝去され享年66歳でした。)
総門跡脇の地蔵堂は、加賀騒動の真如院の子、勢之佐(利和)と八十五郎の供養ため建てられたもので、墓とともに天徳院の外の松下町にあったものを墓とともに境内に移され、さらに墓は野田山に移されたので地蔵堂だけが総門脇に移築されました。松下町から総門内に出世したので出世地蔵と言われるようになったといわれています。
参考文資料:天徳院発行の資料やパンフレット、天徳院での聞取りなど