【金沢・小立野、天徳院】
金沢の三文豪の一人といわれている室生犀星は、34歳の大正12年(1923)9月1日関東大震災で、翌10月には、家族とともに金沢に帰り、妻とみ子の生家池田町の浅川方に仮住まいのあと川御亭や川岸町に移り、その後、数年金沢と東京、軽井沢を行ったり来たりしています。
(天徳院)
大正13年(1924)5月には芥川龍之介を金沢に招きますが、大正14年(1925)1月には単身上京して田端の旧居が空かず一時田端の別の家に仮住まい、2月には家族も上京し、4月には田端の旧居に移転します。その頃に金沢に草庵を建てる思いがつのったといわれています。
大正15年(1926)5月に金沢に一時帰郷し、天徳院の寺領150坪を借り、庭造りに着手します。妻とみ子宛の手紙に「きのふ地所の調印をしました。明日あたり、垣根二日、地ならし二日、石はこび二日、敷石を敷くため二日、木の植込三日、流れをとる小川二三日」数日後「大部分出来上ったが、たぶん十日ころには帰れることと存じ候、何分にても後庭百坪あり、どれだけ木を植えても足りなくて閉口いたし候」と書き送っています。
昭和3年(1928)には、4月に義母ハルが死亡、帰郷し通夜、葬儀に出席し、7月に東京の家を引き払い、軽井沢の貸別荘に滞在していますが、11月には東京大森谷中の借家に転居しています。
昭和4年(1929)5月には単身金沢に帰り寒蝉亭(かんせんてい)と名づけた庭の草庵に止宿して庭仕事をしています。東京より石塔を送り、茶室として田端の家の離れを解体して移築し、ほかに6畳と8畳の母屋も作っています。
(天徳院参道)
(石川モーターズのビルの間を入る)
(左の建物の所に茶室がありました)
昭和6年(1931)7月には、軽井沢に百坪の土地を借りて新築した別荘に一家で滞在します。昭和7年(1932)、前年から東京に家を建てることを考えていて、そのため金沢の「寒蝉亭(かんせいてい)」を売却します。
(・・・金はどうして作る、私は国(金沢)にある庭を思ひだした。それは毎年春と冬に支払う経費だけでも、相当の額が上がり、私にはもはや重すぎ負担であった。・・・私は咄嗟の庭を壊そう、壊して了(お)はろう、そしてそれをその金を建築の一部に当てよう、それから永年あつめて書庫を開放しよう。「泥雀の歌」より)
この天徳院の寒蝉亭(かんせいてい)に費やされた費用は、犀星の原稿料が400字詰め1枚1円(大正8年(1919))の頃、飛石1個に20円も払うなど、総額で4000円~5000円もの費用をかけたそうです。
その後の寒蝉亭(かんせいてい)は、一時、天徳院の方丈(住職)の隠居所になり生活がし易いように手を加えたといわれています。その後、戦前、今から70数年前、和菓子の高砂屋の吉田扶見子さんの祖父にあたる初太郎さんの隠居所に高砂屋が百円で購入します。昭和37年(1962)11月、ご隠居の初太郎さんが84歳で他界し、翌年、高砂屋が犀星の研究者に相談したところ保存に消極的だったとかで、取り壊されました。
後日談として、高砂屋の吉田扶見子さんが取り壊した後、昭和44年(1969)7月に、犀星の長女室生朝子さんにそのことを話すと「ひとこと私にいってほしかった」と残念がられたという話が伝えられています。今、高砂屋さんの2階には、裏千家今日庵の業躰として裏千家の茶道で重きをなした宗匠野島宗禎氏の指導で「兼六庵」として再現されているそうです。
参考文献:「天徳院寺領 寒蝉亭のその後」『室生犀星研究』第31輯 蔵角利幸著
「室生犀星文学年譜」室生朝子・本多浩・星野晃一編・「寒蝉亭と小畠貞一」『室生犀星研究』第211輯 宮崎夏子など