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小立野の古地図④亀坂(がめざか)と御小屋坂

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【金沢・小立野】
小立野の旧道にある亀坂(がめざか)は、昔、金沢城の築城に際し、戸室山から戸室石を運ぶにあたり、深い谷を埋め勾配をゆるくしたところで、亀坂(がめざか)という名前の由来も諸説聞かれます。難所のため石を引っ張るとき亀の歩みのようにゆっくりになのでとか、また、谷が亀の甲羅を逆さまにしたような形だったからだと聞いたことがありますが、本当のところは藪の中です。



(この通りが亀坂(がめざか)

(9の右側に「ガメ坂」の文字が見えます。安政の古地図より)


最近では、さらに勾配がゆるく坂のように見えないのか、すぐ下にある御小屋坂を亀坂という人もいます。また、そのように書かれた紹介本もあり、緩やかな坂の途中に、「亀坂(がめざか)」という坂の名と歴史を記した石標があるにも関わらず、地元の住民の間でもこの御小屋坂を亀坂と思い込んでいる人が多くみられます。



(亀坂の石碑)

(上が亀坂・下は地下道)


(50年程前、亀坂の上に「亀の湯(がめのゆ)」という銭湯があり、何時からか白山坂の上に移転しました。そのためか、白山坂を「亀坂(がめさか)」という人がいるそうです。)





(亀坂の天徳院側の谷に、文化2年に辰巳用水のあまり水を使い水車を回し、線香を造る線香場がありました。)




(御小屋坂)


御小屋坂については、麓に藩政期貧民救済を目的とした御救い小屋が作られていたことから御小屋坂とよばれていたといいます。寛文9年(1669)の夏から秋にかけて各地で洪水が発生し、5万8千石分の田畑が流失して大凶作になりました。


加賀藩5代藩主前田綱紀公は土地家屋を失った人々を救済すべく、笠舞村に6千坪を開いて小屋45棟を建て、困窮者の救済にあたりました。これをお救い小屋または非人小屋と呼びました。米の給付があるため、周辺から困窮者が流れ込み、3千人近くになったといいます。単に貧民対策だけでなく、病人の救済や授産所の性格まで備えていたといいます。



(今の笠舞一丁目の住宅地図)


また被災者を収容するだけでなく、働ける人たちに草履やタワシを作らせ、農具を与え、新たに開懇作業を行わせ田畑を作り新じい村を作ります。当時の学者荻生祖来(おぎゅうそらい)により、「加賀の国に非人は一人もなし」とたたえられています。以後御救い小屋は明治2年に卯辰山に移るまで笠舞にありました。


(清光の碑)

被災者の中には、六代長兵衛清光という有名な刀工がいて、笠舞の御救い小屋で刀を制作したそうです。因みに「沖田総司」「東條英樹」といった人たちが、清光の刀を所有していたといわれています。”非人清光の碑”は、昭和42年(1967)4月7日に笠舞1丁目に建てられました。

(製作者は板坂辰治(当時、金沢美術工芸大学教授))



≪脱線:笠舞伝説≫
笠舞の地名は、今から約1300年前、猿丸太夫が、都に行くため、犀川のほとりに差し掛かった時、突風で、被っていた笠が急に舞ったことから”笠舞“の名がついてと言われています。



(今は閑静の住宅地笠舞)


猿丸太夫は、金沢に伝わる伝承によると、聖徳太子の孫にあたり、蘇我氏の迫害で、加賀に逃れ、今の猿丸神社のところに住んで居たいといわれています。(まあ~、説はいろいろ。)猿丸太夫は架空の人物だ、とか、柿本人麻呂と同一人物ではないかなど諸説あります。



(今は閑静の住宅地笠舞)


金沢の伝承では、ある年、都の歌会に出席してから帰らなかったといいますが、「加賀の国は、雪が降って、物寂しい国、再び帰らず」として帰らなかったといわれていますが、村には養鶏などを教えたなどと伝えられ、村人は塚を築いて社を建てて神として祀ったといわれています。



その社(猿丸神社)のところが一向一揆の時代は砦だったとも言われ、藩政期には、呪詛(じゅそ)“のろい”の丑の刻参りで知られ、闇に紛れて鉄釘(くぎ)を打ったといいますが、今は、その杉の老木も伐採されたと聞きます。



(笠舞の住宅地)


藩政期の伝承には、笠舞は水が良いので、稲穂は長く、他の村の7倍もあり、稲籾が多くて、ある年などは、一穂に3,530粒もついたといいます。実際にも、藩政期の寛文10年(1670)村御印による村高は714石で百姓17名、年貢が7ッ2歩(72%)綿役3匁、野役19匁と、税がやたらに高かったようです。


(明暦(1656)の平均免(税率)は、江沼5ッ、能美4ッ3歩5厘、石川5ッ2歩8厘、河北5ッ7歩、能登口郡4ッ7歩5厘、能登奥郡5ッ1歩8厘、礪波4ッ5歩8厘、射水4ッ6歩4厘、新川4ッ1歩5厘で、お城に近いところが高いようです。)



(今も少しだけ残る笠舞田圃)


また、城下に近いので、藩の御用地として召し上げられました。上笠舞は、鉄砲足軽が住み、下笠舞は、篠原家の下屋敷や手木足軽や台所付き足軽の組地で、旧手木町や旧台所町はその名残です。何故か水が良いはずの上田(じょうでん)の笠舞の田圃を、御救い小屋や足軽組地にしています。


(稲籾のことはよく分かりませんが、明治の笠舞の記録を調べてみると、一反当りのお米の生産量は1石1斗2升と他の地域と余りかわりません。また村の戸数は97戸、そのうち農業は53戸になっています。)


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