【金沢・小立野】
小立野は、東西は約500m、兼六園の小立野口から天徳院まで1、5kmぐらいで、史料(越登加三州志)には幅狭く細長いので、昔は「小竪野」といい、“小立野“というのは謬書(びょうしょ)だ!!(間違い)というのもあります。また、一向一揆の七里参河が小館を建てたので「小館野」というとか、木曽義仲が、平岡野木立林に陣をとったからとか、変ったところでは、大昔、今、蕎麦屋小立庵の辺りの荒野に建っていた小立庵という草庵からきているとか、どれももっともらしく聞こえてきます。
本題から外れますが、小立野で気になることが幾つかありますので、初めから脱線です。地質学者の説によると、1万年以前(沖積世)まで、小立野台地は犀川と浅野川が蛇行して流れていて、海の沈下に伴い台地が浸蝕され今日のように河岸段丘ができ川床が下がり小立野台地が細長く残ったといいます。
(竹沢御殿は今の兼六園)
犀川が河岸段丘をつくったとき、川の上流の「片麻岩」に含有する金を多量に小立野台地の段丘に沈殿させたそうです。そういうわけで、芋堀藤五郎伝説に有るように小立野台地には昔から砂金が取れたのだといいます。一番大量に取れたのは、今の兼六園から金沢城のところらしく、中世にはゴールドラッシュで金屋が集まり、砂金採掘が続いたといわれています。
時代は下り、前田家が入城すると、金沢城築城に際して、戸室山から切り出された石材が大勢の人たちによって城まで運ばれ、そのため小立野の真ん中に石を運ぶための道路が通され、今も「石引通り」と呼ばれています。
当時の下馬地蔵は、石を運ぶ人々の平安無事を祈りました。後に3代藩主利常公の正室球姫様の菩提所として天徳院が建立されると、地蔵堂のところを下馬として鎮守祠を設け白山権現を併祠し腰掛け所を作ります。腰掛けは、行き交う人や参詣の人に利用され、人々はこの祠辺りを「下馬先」といっていたといいます。
(今の下馬広場)
下馬地蔵は以来400年間、天徳院の祭祠に留まらず除災招福の霊験著しく小立野に住む人々の信仰の祭祠として、毎年例祭「下馬のまつり」が開催され、盆踊りは「下馬の踊りにおどらぬは、臼の目立てか、番太郎か」と唄われるほどで有名だったといわれていたそうです。30何年か前から地元の人々で「石引夏まつり」と名も新たに復活され、下馬の広場では今年も8月1日開催されます。
今回「小立野の古地図めぐり」を実施するにあたり、歴史があり見どころも多く2時間前後でめぐるコースの選定に苦慮しました。結論は、一回で終わろうとするところに無理があり、何回かに分けてめぐることにしました。今回は、小立野下馬の集合し、亀坂(がめざか)経由で小立野にある前田家所縁の4ヶ寺と一向一揆伝説が残る椿原天満宮をはじめ天神町界わいの歴史や現在金沢大学病院の構内のなっている旧与力町にもふれ、中世の砦の跡ともいわれる八坂へ、約2km一寸、2時間から班によっては、2時間半の散策になりました。
次回は詳細を・・・。