【金沢・小立野】
小立野の古地図を見ると、現在の金沢大学病院のところは、前回にも書きましたが与力町で100軒ばかりの家々が建並んでいて、屋敷地には、玄関側と思しきところから苗字が書かれています。つぶさに眺めていると、聞いたことのある名前が目に入りました。
4年ほど前、北国新聞に夏目漱石の「坊ちゃん」で教頭「赤シャツ」のモデルといわれている横地石太郎氏の記事が載り、そこに小立野与力町の出身だという書かれていたのを思い出し、今度の小立野の古地図めぐりのネタにしようと思い、当時の新聞を引っ張りだし、その頃に集めた資料とともに読み返しました。
古地図によると、宝円寺の前の通りから入り1本目の小路を左に曲がり突き当りの左側の崖の上の横地和次郎と書かれているところだと思われます。現在の金沢大学病院と住宅地の境界線辺りのようです。特定はできませんが、金沢の街中や向の卯辰山など眺めがよく、敷地もかなりの広さがあったように思われます。
「赤シャツ」は、小説「坊ちゃん」の作中、権力を笠に着る唯一悪役ですが、帝大出の文学士で、当時流行していた赤シャツを着た「ハイカラ野郎」で、妙に女のような優しい声を出す、どこから見ても紳士風で松山でも一目置かれる存在として描かれています。しかし、モデルは帝大の文学部を出た文学士漱石自身だという説もあります。
一方、横地石太郎は、安政7年(1860)生まれで、前田家15代利嗣とともに本郷の学問所に学び、後東京開成学校(東大の前身)理科で学び卒業。全国各地で教師として働き、誠実な人格者で、山口高等商業学校(山口大学経済学部)校長を最後に教職を退いています。
横地石太郎が明治27年(1894)、33歳のとき松山中学の嘱託教諭に就き、漱石は、翌年英語教師として赴任、その11年後に「坊ちゃん」が発表されています。後に横地は、その時「教員室で一度頭を下げただけだった」と振り返っていたといいます。
しかし、松山時代以後のことですが夏目家と横地家が、漱石の結婚によって間接的に親戚になったことから、他人を悪役に仕立てることに躊躇した漱石が、この役を親戚の横地石太郎にしたのではという説が、誠しやかに伝えられているとか・・・。
(金沢では、2013年6月8日(土)~7月7日(日)金沢ふるさと偉人館で「開館20周年記念企画展」で夏目漱石とその時代―漱石をめぐる金沢の人々―が開催されました。)
参考文献:「加賀藩士横地石太郎」山路の会平成元年3月発行他