【金沢・小立野】
小立野の旧与力町は、他の武家地と違い明治なり、空気がよく自然の眺めが清らかで美しく、さらに、立ち退きが容易だったのか病院や学校が誘致されました。原型を留めぬ大開発が行われ、昔を思い起こす小路も建物跡、樹木もありませんが、よく周辺をみると宝円寺前と金沢美大側に一部、当時の小路の跡が残っていました。しかし、大方が大学病院と大学ですから古地図を片手に巡るという分けにもいかず、古地図を見ながら想像を巡らしています。
(宝円寺門前に約100軒の与力の屋敷がありました)
与力町は、元は田井村の村地で、寛文5年(1665)に藩に召し上げられ、与力の屋敷地になりました。元禄6年(1693)の侍帳には54家が記録されているそうです。与力とは、藩政期の職名で、寄騎とも書きますが時代や藩によって意味が異なります。加賀藩でも藩主より人持組の大身に預けられた者をいい、身分はお目見え以下の武士です。
(金沢大学病院・明治38年に病院・明治45年に医学校が移転)
原則は一代限りで約190家。禄高は60石から300石で、藩政後期には藩士の二、三男が分家して新たに家を立てたようで、加賀藩士で、よく知られた姓が幾つも見えます。組地はこちらの小立野の他に石坂与力町があり、大きい屋敷では200~300坪、禄高200~300石取りが何家もあります。
幕末の小立野与力町には、109軒の内92軒に与力が居住し、他の組は8軒空地が8軒あったといいます。住民には、明治になり不平藩士が時の執政本多政均(ほんだまさちか)を暗殺する事件の首謀者や同志、さらに事を起こすことを戒めた人も居住していますが、明治のなり学者や政治家など著名人も輩出しています。また、藩政期お殿様が所望するが、大きくて運ぶことが出来なかったため藩主から五人扶持を拝領した「五人扶持の松」と云われる五葉松が、今も大きな枝を張っています。
(金沢美大前の元の与力町の道)
(宝円寺前の元の与力町の道)
≪本多政均暗殺事件と仇討ち≫
明治2年(1869)8月。金沢城二の丸御殿で、金沢藩執政(藩臣の最高職)の本多政均(ほんだまさちか)が暗殺されました。テロの実行犯は下級藩士2人、金沢城の廊下でじっと息を潜め、白昼堂々行われた凶行でした。西欧文化を積極的に導入し、藩の近代化を推し進めようとした政均の改革は、時代の急激な変化についていけない藩士の不満のはけ口にされたといわれています。
(実行犯2人は、山辺沖太郎と従兄弟の与力町の住人井口義平)
(金大病院から眺める金沢城石川門)
14代藩主(金沢藩知事)前田慶寧公(よしやす)は、犯行の翌日。政均の改革は自分の意に沿うものだと強調した上で、「今後は心得違いをすることのないよう、一同に強く申し諭しておく」と家臣に命じたといいます。
事件から1年半後、実行犯は処刑されたが、共犯者の多くが軽い処分で済みます。これで納まらなかったのは主を殺された本多家の家臣たちでした。無念を晴らそうと立ち上がった15人は、暗殺計画に関与した藩士を突き止めると、自宅や通勤途中、出張先へ押しかけ、3人を討ち果たします。
(金大病院から眺める卯辰山)
仇討ちに加わった15人のうち12人は翌明治5年(1872)、切腹を命じられます。この事件は維新後の日本社会に与えた影響は大きく、政府はすぐさま「仇討ち禁止令」を出し、全時代的な風習の一掃を図ったといいます。
参考資料::「金沢古地図めぐり」金沢市発行・「五人扶持の松が見える天神町」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11467283668.html