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初詣

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あけましておめでとうございます。


【金沢・尾山神社】
お昼前、金沢市内で一番人気の尾山神社へ初詣に行きました。お天気はみぞれにベチャベチャの金沢らしい雪。拝殿への参道には参拝者がスムーズに進めるように2箇所にロープを持った係が停止線を張り、待たされ、待って、やっと二礼二拍手一礼に漕ぎ着けました。


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(尾山神社)


久ぶりの尾山神社への初詣。空模様も足元も悪いのに、さすが正月、昨夜から参拝者がどんどん集まり、午後0時に新年を知らせる太鼓が鳴ってから、ズウ~と人出が続いているとのことでした。


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(停止線のロープ)


午後になると青空が覗き“金沢らしい回り舞台”傘いらずの雪景色を眺めながら、氏神様の石浦神社へ足を伸ばし、雪に足を取られながらトボトボと帰宅しました。


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(石浦神社)


(今年の金沢のスタートは、霙(みぞれ)のち雪そして晴れ・・・、本年は晴れ晴れとした良い年でありますように・・・・。)



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(露店が思ったより多い尾山神社)


≪尾山神社神門について≫
国指定の重要文化財である尾山神社は、意外と新しく明冶6年(1872)、廃藩置県後、旧藩士が明治政府に請願して創建されました。やがて寄進も参詣も少なくなり、参拝者の増加を計画し擬洋風の神門が造営され明治8年(1874)に開門しました。


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(尾山神社境内の傘、傘、傘・・・)

祭神は前田利家公で、藩政期は今の東山の宇多須神社のところに有りました卯辰八幡宮に合祀されていました。合祀は藩政期、幕府に対して大っぴらに利家公を神として祀ることが出来ないことから、八幡さんと神明さんに合祀する形を取り利家公の神霊を祀りました。


現在の尾山神社の土地は、藩政期、金沢城の出城で、今、発掘中の玉泉丸から、橋で繫がるお殿様のご隠居所であり、また、藩主の子供達の住む住居で“金谷御殿”といいました。


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(神門前の行列)


この土地は、明冶2年(1869)の版籍奉還で一旦明治政府に返還されますが、旧加賀八家の前田直行が中心になり、後2代目金沢市長になる長谷川準也や弟の大塚志良等により官許を得て、明冶6年(1873)に尾山神社として創建され、土地は粟ヶ崎の豪商木谷家に繋がる者が買い取り寄付しています。


しかし、1・2年すると寄進も参詣も減少し、神社の維持がままならなくなり、市民を「あっといわせる神門を建てよう」とわざわざ“奇をてらった”西洋とも東洋ともつかない不思議な神門が造られました。日本で始めての避雷針を付け、高さ25mの望楼はわざわざ「金石沖の海から見えるよう」に設計されたといいます。


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(拝殿①)


初めは、この客寄せパンダのような神門に、“珍しいもの見たさ”からか見物客も多く、大いに賑わったそうですが、当時としては、あまりの異様さから「醜形門」といわれるなど、神門改造論が新聞紙上を賑わしたといいます。


その頃、金沢に来た、人気の小説「五重塔」を書いた幸田露伴や俳人の河東碧梧桐などの著名人が「レンガつくりの竜宮城」等と、煽るものですから、ますます反対運動が激しくなり明治28年(1895)には代案の門の設計図まで出来たが、結果、1万5千円(今の5~6億か?)の改造資金が集らなくて断念したといいます。


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(神門から拝殿)

しかし、この建物が、昭和10年(1935)に、「国宝」に指定されます。その理由は、明冶初期に建てられた国立第一銀行など、明治の黎明期に日本人が創った異国情緒豊かな建物は殆んどなくなり、創設からわずか60年ぐらいで、芸術的歴史的価値から見ると国宝としての価値に遠いけれど、数が少なくなった明治の黎明期の建築物として価値あると認められたのだいいます。


(戦後、昭和25年(1950)に、制定された文化財保護法により、新たに、金沢城石川門らと共に国の重要文化財に指定されました。)


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(尾山神社の庭園)

設計者については、金沢藩のお抱え医師のホルトマンだということになっていましたが、神門改修の時、棟札が出てきて、日本人の津田吉之助だということが分りました。


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(初詣の人々と神門)

津田吉之助については、伝説も数々ありますが、家は代々続く大工で当時長谷川準也家に出入りしていました。字も読めず、そろばんの出来ないが「どんな何題や明細な仕事を命じても、いまだに、出来ないと断った事も、仕損じたことも無かった」といわれていました。


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(御札の売店)


明治5年(1872)には、群馬県富岡に出来た製糸工場に行き、機械の見取図を描き、帰って普通の大工や鍛冶屋を集めその図面を見せ、自分の工夫も加えて精巧な機械を組み立て、長谷川準也が創った金沢製糸工場に据付けたり、また「からくり」や塩の製造法改良など広範囲に渡り業績を残したといいます。


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(拝殿②建物は金谷御殿の古材で造られたとか)

どうもこの神門は、富岡に行った時、数日東京に足をのばして「第一国立銀行本店」の見学をしているので、この銀行の高い五層建の上に“乗せた望楼”をモデルにしたのではないかと思われるくらい、よく似たものだったといわれています。


余談ですが、吉之助の実子の津田米次郎は、“津田式自動力織機”を発明しています。されから、今も金沢にある織機メーカーの津田駒工業株式会社の創始者津田駒次郎は甥でした。


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(裏門・藩政期は金沢常の丸の唐門)

随分脱線しましたが、脱線ついでに、もう一つ二つ昔にさかのぼると、前にも述べたお殿様の隠居所金谷御殿、その前15世紀、一向一揆の頃は、金沢の地名にも関わる金を掘る金屋達が一攫千金を夢見て集まった土地だという伝説があります。


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