【金沢・西御坊町と下博労町】
「梅田日記」の筆者梅田甚三久は、天保4年(1833)(明治の35年前)金沢の西御坊町(現在の西別院辺り)で生まれています。昭和30年代、町名が変更される前の五宝町です。照円寺の横を入り、左手に西別院がありますが、さらに行くと右側に塩屋町に繋がる道がありその辺りだったようで、文化8年(1811)の町絵図には、父親の家ですが、それらしい家がありました。
父は酢を商う町人で能登屋甚助といいます。甚三久は両親との縁が薄く、満1歳で母を、5歳で父に死に別れ、知り合いや叔父の家を転々とする幼・少年期を送っています。
(安政期の古地図より)
この頃、日本はたびたびの飢饉に見舞われ、各地では一揆や打ち壊しが起こり、加賀藩近海でも、ロシアやイギリス等の船が通商を求めてやってくるなど、徳川幕府の支配も不安定な時代に差し掛かっていました。
のちに、幕府を倒すことになる長州藩の桂小五郎(明治になり木戸孝允。)は、甚三久と同じ天保4年生まれですし、新撰組の近藤勇は、甚三久と一つ下の天保5年生まれ、坂本竜馬は、二つ下の、天保6年生まれです。
彼らは、甚三久と同年代です。といっても甚三久には彼等のような偉大な業績がある分けではないのですが、ただ、今になってみれば、あまり無い、町人の記録を残したことは、見方によっては物凄い業績といえます。
22歳の時、叔父が死ぬと、その跡をついで能登屋甚三郎と名乗ります。その後20代の彼は何をして過ごしていたのかよく分かりませんが、はっきりするのは、29歳で前回にも書きました「能登口郡番代手伝」に就いた時です。そして元治元年(1864)31歳の時、24歳の女性“しな”と結婚し、浅野川大橋付近の左岸に住むようになります。
(今の並木町)
並木町といわれています。現在、家は特定されていませんが、ちょうどその頃より彼は日記を書き始めています。新婚の記念に書き始めたものか、日記には、新妻の事が頻繁に書かれ、正月の髪型の事や夫婦喧嘩の事、友人宅で一緒に食事をしたあと、相合傘で仲良く夜道を帰ったことが書かれています。
日記を読む限り、新婚時代の甚三久の生活は、とても充実した楽しいものだったようです。しかし、当時の日本国内は幕末動乱時代。甚三久の住む、加賀藩も、その動乱とは無縁ではありませんでした。
書きはじめて2年経った頃には、最初の楽しい記述は段々少なくなり、政治や社会や事件が多く記録されるようになります。また、物価も高騰し生活費が足りなくなり、職場の仲間と給料値上げを訴えるなど、生活への影響も出てきました。
明治になると加賀藩もなくなり、版籍奉還後の金沢藩も廃藩置県でなくなりってしまいます。末端の末端とはいえ、藩に雇われていた甚三久は職を失い、同じ頃、あんなに仲の良かった妻とも死別したともいわれていますが、分かれています。そして、勤めていたときの伝(つて)を頼って能登の七尾に移住し再婚します。甚三久40歳、不惑の転進でした。
七尾に移ってからは、身についた事務能力を活かして、加賀藩時代と同様に、役所に勤めることになります。57歳で退職するまで勤務したことが残された史料からわかります。
しかし退職後は、養子と離縁し、明治28年(1895)62才のとき七尾町の大火で家を失うなど苦労が続きます。そんな中で菓子、煙草の小売業を営んで生計を立てようと勤めたようです。
明治31年(1898)春、持病の痰咳を悪化させて肺を病み、12月23日永眠しました。同じ年、七尾と津幡を結ぶ七尾線が開通しています。満65歳実子はいませんが、家を継いだ人が金沢にいらっしゃいます。
(「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修)
このように、甚三久の一生は、江戸時代から明治時代へという時代の転換期、時代に翻弄され、流されながらも実直に生きたのではないかと思われます。
というのが甚三久の人生のあらましです。
参考文献::「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・幕末金沢庶民のくらし「梅田甚三久日記が描く旅」堀井美里著など