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「梅田日記」と幕末の古地図③

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【金沢・下博労町】
甚三久は、安政5年(1855)22歳の時叔父が死ぬと、その跡をついで能登屋甚三郎と名乗ります。その後20代の彼は何をして過ごしていたのかよく分かりませんが、読み書きソロバンに優れ、後に砺波郡高宮村に謡指導や材木町の町人が甚三久に半年間入門するなど“謡”は趣味を超えた玄人裸足、決して無駄に過ごした20代ではなかったように思われます。



(今の中の橋から主計町)


住まいは、叔父の跡を継ぐと一時下近江町に住みますが、安政5年(1855)22歳の7月から、おばの続きの下博労町の町博労斉藤弥兵衛方に結婚するまで同居します。結婚は元治元年(1864)5月、32歳の時、“しな”と結婚。妻“しな”は24歳で人持組2100石の佐々木左近助に仕える佐々木次郎右衛門の妹で、斉藤弥兵衛の養子斉藤忠平の養女として甚三久に嫁ぎます。


(“しな”の兄次郎右衛門は、甚三久と同い年で、佐々木屋と称した元は町人ですが、先祖が左近助と同じ近江出身で、奉公を申し出、小将並に召し抱えられ、当時は二人扶持銀三枚の書写役です。)



(中の橋)


≪中の橋≫
天保年間(1830~1845)に酒井平一によって私設の橋が経営をはじめたといわれる一文橋、主計町側に番小屋があり橋銭を取ったといいます。


詳しくは、当ブログ「浅野川に架かる橋④中の橋”一文橋“」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10585805353.html



(安政の古地図・中の橋から下博労町と関助馬場)


≪下博労町≫
一文橋(中ノ橋)の北側に関助馬場があり、下博労町は、馬の売買や馬術稽古の侍に賃場と称する貸馬を業とする博労の住む町でした。文化8年≪1811)の金沢町絵図に斎藤家の何代か前と思われる斎藤長八の家が描かれています。150坪の大きな家だったらしく、日記には馬場の斎藤というのが頻繁に登場します。




(文化8年(1811)の町絵図・赤が斉藤家150坪、何代か前か・・・)



(今の旧下博労町・斉藤家跡は左側か・・・)



ガイドネタ
関助馬場:由来は藩政時代、城内・城下にいくつかの馬場(馬術練習場)があり、特に有名であった浅野川の馬場を「東馬場」また「関助馬場」「浅野川馬場」といい、佐賀関助が荒廃していた馬場を再興し長さ約200間(約360m)、幅約15間(約27m)の大きな調馬場を造りました。前田利常公が駿馬を好んで、ここを訪れたこともあるという。馬場の砂入れの入札が寛文4年(1664)に行われていることから、この頃に成立したものと思われます。川に面して造られたのは馬に水を飲ませたり、馬の体を洗うのに都合が良かったからでしょう。犀川付近の法船寺馬場を「西馬場」と呼んだのに対し「関助馬場」を「東馬場」と名付けられたようです。


 

(今の関助馬場跡)


梅田日記の記述
・元治元年9月20日、馬場の斎藤家より能登の炭を10俵依頼される、今日代銀39匁(5~6万円か?すると1俵5~6千円ぐらい)持参・・・。
・元治2年2月19日、馬場斉藤の“おきん”が、長大隅守(加賀藩年寄)家来寺崎小十郎殿方へ嫁に・・・。



(昔の関助馬場の図)


甚三久と斉藤家との親密な親類付き合いや武家の資料ではあまり見ない武家と町人の結婚などが書かれていて、町人の目から見た当時の様子が窺われます。



参考文献::「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行


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