【金沢・ひがし茶屋街と旧観音町】
梅田日記には、今人気の「ひがし茶屋街」や「旧観音町」が書かれていて、当時、無許可の茶屋町や芸者さん、舞子さんがよく登場します。藩の許可を得て文政3年(1820)から11年間続いた茶屋町も、天保2年(1831)には、藩の方針が改められ風紀上許すべからずとして廃止になっています。しかし当時、“もぐり”か“お目こぼし”か、無許可のはずの茶屋町に珍席があり芸者や舞子がいて意外です。今も昔も、煩悩には逆らえないということなのでしょう・・・。
(慶応3年(1867)8月(廃止から36年後)に藩政改革の機運に乗じて再び公許になり9月9日開業しました。)
詳しくは「藩政期末の金沢・ひがし茶屋街②」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11648947466.html
(文化8年(1811)の茶屋町の絵図・町割がずいぶん違います。)
(天保年間のひがし茶屋街の絵図)
(安政年間のひがし茶屋街の絵図)
≪観音町の記述≫
1、 元治元年(1964)10月27日(旧暦):観音町の建具屋が、注文してあった店の間と庭の境の帯戸2枚が出来上がり、昼後に建具屋の親司が来て立付けなどをして、夕方帰る。
2、 元治2年2月15日(旧暦):近所の夫婦と観音院から卯辰山めぐりのあと、磯屋(有名な料理屋か)へ行くが、先客が多くて、観音町の小松屋行き、一盃と夕食。24匁9分の割符(藩札?)を支払い、愛宕町を一めぐりして、夜9時過ぎに家に帰る。
3、 元治2年2月15日(旧暦):料理が得意な友人(足軽井村小太郎)より小鯖を5本貰うが、散策のあと飯を食うため・・・よんどころなく鯖を観音町の青草屋に預け、小松屋の帰りに青草屋から取って帰り、すぐに料理をしてくれた。
4、 元治2年3月21日(旧暦):役所が4時前に済み、家に弁当の明きガラ(箱)を置き、観音町入口と森下町の名前の知らない西側の道具屋に行き、小さい皿10枚と盃4つを2軒から買い、銀11匁5分支払った。等々
≪愛宕町(現ひがし茶屋街)の記述≫
1、 元治2年(1865)1月朔日(旧暦):元旦の夜7時ごろ、近所の井村夫婦と職弟子、自分ら夫婦の5人で愛宕町丁子風呂に行く、風呂は大群集で終始立ちっぱなしだった。
2、 元治2年3月25日(旧暦):蓮如忌に嫁“しな”と斉藤家の一族で山行き(卯辰山)。大雨に遭い日蓮宗竜円寺の座敷を借り酒会。自分も仕事などで遅れるが・・・・・。酒盛りが始まると追々人が集まり男女20人ぐらいになり、夕方より愛宕町の芸者・舞子4・5人が来ていろいろ舞い、一際にぎやかになり、みんなも良いご機嫌に、自分は中程より前後知らずに酩酊し、夜10時前、みんなが帰るころ起こされ帰る。
3、 元治2年3月27日(旧暦):卯辰山曹洞宗龍国寺稲荷様御開帳に行くと、途中で友人に会い7人で雲錦楼(料理屋か)に行き酒肴を取り寄せ、みんな程よく酔い、5時過ぎそこを出るが、みんなご機嫌で、愛宕町の珍席に行き、ここにてまたぞろ一盃と相始まり舞子も来て一際賑わい、夜6時過ぎに帰る。等々
(旧愛宕1番丁)
(今のひがし茶屋街)
(上記は、日記の要約ですが、当時の庶民の生活を垣間見ることができます。次回は茶屋町の芸者や食、遊興等を拾ってみます。)
参考文献::「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行