【金沢・並木町・旧観音町他】
藩政期の金沢町人は、隣保制度により十人組(10人ないし町によっては数10人単位)が組織され、組合員として町行政に組み込まれていました。各組は組合頭が定められ町肝煎・町年寄の統率下にありました。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、治安維持や町の中での争議の解決や法令の伝達周知の徹底を図っています。
「梅田日記」には、親戚や職場の上司・同僚との親密な付き合いの様子が書かれていますが、他に、隣組の組合員も登場します。隣組は隣保制度によるものと思われます。並木町には足軽もいて、相互扶助の様子が描かれていて、山行き、寺社参詣、外食、遊興など、家族ぐるみの付き合いが度々出てきます。
(安政期の古地図・上の黒線は寺町足軽町から並木町への道)
≪日記に出てくる近所の人々≫
越中屋太三郎(越太)―町人、越中屋十兵衛、越中屋おすては家族か?
伊藤新左衛門(伊藤親司)―大野木将人(1650石、人持組)の足軽
井波屋藤七(井藤)―町人、夫婦と職弟子直作
今村―(今村親司)足軽か?親司と内儀
直江屋権三郎―町役者、内儀、政太郎、政太郎の姉おせい、
他、当番制の“夜廻り”に登場する組合員として
紺屋又吉(紺又)・大屋・越儀・敷村がいて、能登屋甚三郎(梅田甚三久)を含め10人で、十人組が組織されていたものと思われます。
≪甚三久の近所付き合い≫
元治元年8月26日(旧暦)曇、
一、組合の井波屋藤七方夫婦・直江屋の政太郎そして政太郎姉おせい、越中屋の十兵衛親子、そして自分達夫婦、の8人連れえで、午後、向山(卯辰山)へ茸狩に行く、大池辺り迄行くが、まったく採れず、むなしく夕方帰る。(役所を休む)
一、夕方井波屋藤七と、風呂へ行く、戻りがけに、主計町のカヤクそば屋へ行く、そば屋で徳利を一本取り、7時半前に帰る。(その間、藤七内義、妻しなが来て、一緒にそばを食べる)
元治元年10月3日(旧暦)天気
一、 隣家伊藤新左衛門(大野木将人足軽)殿と、春日社(小坂神社)の角力に行き、夕方帰る。(一日、角力見物に行くが雨で中止)
元治2年1月2日(休暦)極天気、草履はき之事、
一、明け方2時頃、妻しなと井波屋夫婦と弟子直作4人連で買初(かいぞめ)に行く。
元治2年1月11日(旧暦)天気
一、 今早朝、井波屋藤七と風呂に行く。
一、 井波屋夫婦、越中屋おすて、自分ら夫婦の5人で夕方より木町多葉粉屋へ軍談等聞に行き、帰りがけに母衣町カヤクそば屋へ入り、銚子一本を頼み、みんなでそはを喰へ帰る。
元治2年3月19日(旧暦)天気、
一、 今日六斗の調練場(今の泉中学のところか?)にて軍事調練があり見物。午後より隣家今村、伊藤(新左衛門、大野木将人足軽)そして自分と3人連で行く、そこでは、大筒10挺ほど、銃卒大体30人ほどづつ1隊で、14,5隊ほど有り、奉行人か乗馬で3騎、プログラムはいろいろ有り、午後4時前に済、見物人もおびただしく、帰りは伊藤親司を見失い今村親司と寺町の足軽町で、今村親司の知り合いの笠松源兵衛方へ立寄り、煎茶に水羊羹を戴き、その後、かれいの煮付などで一盃、お酒の最中には巻ずしが出され、長居をすることに、午後5時になり、ご機嫌に、帰りは、寺町より一文橋(現桜橋か)を渡り、百間堀通りより帰る。
等々、近所付き合いが延々と書かれています。今の近所付き合いより濃密にみえますが、根っこには連帯責任、相互監察という町行政のしたたかさが窺えます。
(町肝煎は、町々に在住する分けではなく、いくつかの町を管理統括し、各町の直接管理は各町内に住む組合頭が管理しました。町には当番制の箱番役がいて町内の相続書類や公文書を入れる御用箱が置かれ組合員の確認の元に保管されていたそうです。)
参考文献::「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行ほか