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古地図に見る金沢東山の町名

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【金沢市内】
金沢の古地図には、今では消えてなくなった町名が書かれています。特に東山界わいでは北国街道の西も東も東山になり、東山何丁目だと聞いてもピンときませんが、町名を大きな括りにすることで悪所のイメージが払拭さるとか、戦中の隣保制度のしがらみから開放されるというメリットもあったようにも思われます。



(藩政期の町名が書かれている安政期の古地図)


金沢市内の町名が変更されたのは、昭和30年代の後半、郵便配達が細々した町名では労が大きく、また遅延の原因だからという触れ込みだったそうです。東京オリンピック景気の最中、新しモン好きの金沢の人たちが、未来を夢見るあまりに古いことを省みないという当時の時代風潮が後押しとなり、乗ってしまったのだという話を聞いたこともありました。


(昭和37年(1962)金沢市が「住宅表示に関する法律」の実験都市に指定され933町あった町名が約520町になりますが、当時、地区ぐるみで異を唱えたのでしょうか、今も昔の町名が残る地区があります。)



(旧観音町)

(旧観音大工町)


かといって昔の町名がすべて良かったいうわけではありませんが、古地図を見ていると、60歳以上の市民の中には、当時の懐かしい思い出と共に町並みや家々が目に浮かんでくる人もいることでしょう。


(藩政期の茶屋町(旧愛宕町)


金沢では平成11年(1999)から全国の先駆け旧町名復活という運動が展開されていて、初めに主計町、下石引町、飛梅町が復活し、平成26年(2014)現在11の町名が昔の名前に復しましたが、すべてが藩政期の町名というわけではなく、明治以後に町名になったものも含まれています。


(藩政期の町名は、町会所支配の町にしかなく、武家地は通称で、たとえが本多町は「安房殿家中」や安藤町や桜畠などは「足軽組地」とか「足軽町」などと呼ばれていたそうです。)



(昔の金沢風情が感じられる町並み)


町名変更については、金沢経済同友会の提言を元市長の山出保氏の時代に実施されたもので、当時、山出氏は旧町名の復活は、「昔を懐かしむこと」より「ご近所のコミニティーの復活」だとおっしゃっていたことが思い出されます。


以下東山の1部を紹介します。


木町(きまち)1・2・3・4番丁
藩政のころ、材木問屋が集まっていたので、はじめ卯辰ノ木町、かつて四筋あったことから四丁木町などと呼ばれ、のち、この名がついた。地子町の一つ。(今の東山1・2丁目)


(旧木町1番丁)

(木町の石碑)


森下町(もりもとまち)
藩政初期、森下村の郷士、亀田大隅の子孫が染工になって居住していたので、この名がつけられました。本町の一つ。(今の東山1・2・3丁目、森山1丁目)



(旧森下町)

(馬場小前に有る森下町の石碑)


金屋町(かなやちょう)
もと今の尾山神社の地あたりにありました。元和6年(1620年)、銀座役金屋彦四郎らが居住し、金銀貨を鋳造していたのでこの名がつけられ、後に、この地に移されたという。金谷町とも書きました。地子町の一つ。(今の東山2丁目、森山1丁目)



(旧金屋町の石碑)

(旧金屋町から旧高道町・国道159号)


高道町(たかみちまち)
藩政初期の北陸道は、現道路(国道159号)より西側の低い所にあり、その後、新しく山側の高い所に道ができ(現在の国道159号)、その道を「高道」と呼び、その界隈の町を高道町といいました。地子町の一つ。(今の東山2丁目、山の上町、森山1丁目)



(旧高道町の石碑)

(旧高道町の隣町、今も山ノ上町の光覚寺)


参考資料:金沢市のホームページ・旧町名~現在の町名一覧ほか


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