【金沢】
子供の頃、我が家の正月の床の間は「日の出」ではなく、天神さんの掛け軸が掛かっていました。小学校低学年の頃、祖母から“あんちゃん(私)のがや“と聞かされてはいましたが、それが学問の神様で私へのプレッシャーだということは後に知りました。
(今、子供の頃の正月を思い出せば、近寄りがたかった床の間の”天神さん“が浮かんできます。)
言い伝えによると金沢では、昔から初孫の男子が生まれると、母方の里から「天神堂」が贈られ、年末から正月にかけて飾られ、子供の成長と学問成就を願ったのだといいます。
(天神堂)
その「天神堂」というのは、お宮さんのミニチュアのようなもので、これを床の間に飾る風習は、金沢の全ての家というのではなく、それなりの家柄か、または、その伝統を知る旧家で飾られてきたようで、特に明治から昭和初期まで盛んだったそうです。
金沢に住んでいても、我が家のような庶民の家では、風習は知っていても「天神堂」などには縁もなく、家にもよりますが、代用品というかその一部という「天神さん」の掛け軸を掛けました。
我が家では、男まさりで押しが強かった祖母が母の実家へ求めたモノらしく、やがて、その期待を裏切る私(初孫)への願望からだったのでしょう。祖母の没後、いつの間にか掛けるのをやめていました。そして、私へのプラッシャーも消え、勉強嫌いは益々嵩じていきます。
天神さんといえば、菅原道真公で学問の神様。昔、寺子屋には天神様が祀ってあったらしく、特に金沢では、藩祖の前田利家公が道真公の子孫だと言うことになっていたためか天神信仰が盛んで藩政期より神社以外のお寺の中にも天神堂が祀られお坊さんがお守りしていました。
(泉野菅原神社(時宗玉泉寺)網敷尊影 元和2年(1617)高岡より移転。)
明治以後、国家神道が国民統合の支柱とすることになり、仏より神の方が偉いということなのか、神仏分離政策で切り離されましたが、それでも金沢には「菅原道真公は観音である」と申し立て一時、神殿を仏殿にし、結果、現在も神仏一体の寺院が残っています。
(椿原天満宮 (田井天神社)永仁5年(1297)勧請(伝承) 触頭、多く天神画像が移安されている)
(小橋菅原神社(宝来寺)慶長2年(1597)勧請(伝承) 本山派山伏)
今年、金沢の街中に残る天神さんを祀る寺社を歩き、郷土の先人の天神信仰を辿ってみようと思います。