【浅野川大橋→小橋】
金沢の市場の始まりは、正和元年(1312)の「白山宮三宮記」に書かれている久保市(山崎凹市)が、今の新町、旧今町辺りに古くにあった市場だといわれ、後に、一向一揆の時代に現在の近江町辺りに今市という新しい市ができ、その市の人々が住む今市村という村落が、やがて、近江町と呼ばれるようになったものといわれています。
(近江町いちば館)
藩政初期の市場は、犀川口魚屋町、浅野川口袋町魚市場・上今町・下今町・新町に立っていたといいます。元禄3年(1690)の火災でこれらの市場が焼失し、その年に袋町の魚市場が、さらに享保6(1721)年に犀川口魚屋町がそれぞれ近江町に移り、併合されて近江町市場の原型が出来たといいます。以来、約300年近江町市場は、昔も今も金沢の台所として親しまれています。
(現在の近江町市場①)
その頃の金沢の魚商に関する史料などによると、藩主が新鮮でおいしい魚類を食べるために市場を設立し、町の裕福商人から魚問屋を選び指定することで、市場の組織化を計り保護したといいます。
また、魚類の公定価格は6問屋の協議で決め、請負業者(小売)は魚問屋の払渡し価格の2割を加え売りさばくことに決められ暴利を制限しています。以前にも書きましたが、帳簿は1ヶ月ごとに町奉行下代の検閲があったといわれています。
(現在の近江町市場②)
魚問屋の数も時代によって増減があるようですが、魚問屋業者は営業に対し藩に保護を願いでて、御城銀20貫目の貸与を受け、そのお礼として魚問屋業者より毎年銀100枚が上納することを定められています。
(現在の近江町市場③)
文化8年(1811)の町名帳によると、魚鳥商売や魚問屋、四十物商売(魚の塩もの)、干物、八百屋商、塩物荷屋や百姓宿、商人宿などが軒を連ね、当時も城下町金沢の台所であったようです。文化8年(1811)の総戸数は94軒、明治になると100軒をゆうに越えています。
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(明治の近江町矩商店)
明治になると、藩の保護とお客様であった武士階級を失います。明治18年(1885)の記録では、県内士族の破産者は1,090人を数えたといわれ、金沢の人口は減り、しかも10人に1人がその日暮らしにも差し支えており、近江町市場もその例外ではなく酒2升で店舗を譲渡する者もいたといいます。
(近江町の産土神市姫宮)
明治18年(1885)には、鳥・魚・四十物商が組合をつくり、明治28年(1895)には青果小売も組合がつくられています。
(近江町の新しい入口)
明治37年(1904)6月3日の夜、市場の一角から出火し253戸が焼失しました。そんな中、青果業者53人が県に対し「公共市場として認めてほしい」と申し出て、同年8月6日に許可され「官許金澤青草辻近江町市場」という名称で新しいスタートを切り、武蔵が辻側に「官許金澤青草辻近江町市場」と黒々と大書した白地の大きい標柱が立てられました。
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(新しい石柱)
(平成19年(2007)、老朽した標柱は一度回収され、平成21年(2009)、再開発された「近江町いちば館」のオープンに際し、石柱に造り変えられ“金沢市民の台所近江町市場”のシンボルとして再建されました。)
参考文献;「金沢市近江町市場史」発行 近江町市場商店街振興組合 昭和55年発行