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室生犀星③照道少年

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【金沢・野町界わい】
大正の初め頃、仲間内の誰一人として室生犀星の後半の大成を期待するものはおろか、その才能を知る人もなく、東京根津権現あたりの居酒屋に入り浸り、ただ酒を喰らってあばれるだけしか能がない“ダラ”だと決め付けていたと佐藤春夫の「詩文半生記」に書かれていると何かの本で読んだことがあります。俄然“室生のダラ”の子供の頃に興味がわき、いろいろ拾ってみました。


(今の雨宝院)

小学生の照道(犀星)少年は、小粒なくせに粗暴な劣等生だったといいます。3年生の時、あまりにも受け持ちの先生のいうことを聞かないので、校長室に呼ばれ、温厚な校長先生が諄々(じゅんじゅん)に説諭したといいます。校長先生が自ら説諭するのは野町小学校では前代未聞だったそうです。



(玉泉寺跡に建つ旧野町小学校)


しかし、校長先生の説諭は思いもかけない優しいもであったため元気で校長室を出てきて受け持ちの先生に、“アッカンベ”をするような顔つきであったと伝えられています。


(養母のハツは、学校から呼び出しが来ると、呼び出しに来た小使の女性と仲良くなり、卵や菓子、饅頭などを与えて労うが、学校が怖くて寺の前にある指物屋のおかみさんに代わりに学校へ行って貰っていたそうです。)



(この辺りが雨宝院向側)


照道少年は、いつも孤独で、憂さ晴らしだったのか喧嘩早く、近所の子供たちは雨宝院の前を通るとき、関わりたくないので小走りで通り抜けたといいます。腕白ぶりは評判になっていたそうで、他にも、お盆の切子灯篭の綱を引っ張り揺らし、中のカワラケの油をひっくり反し、灯篭が燃えるのをおもしろがったり、門前の泉用水に蛍を捕ろうとして落ちてずぶ濡れになったという逸話も残っています。

(雨宝院向の徳龍寺)

(泉用水)


高等小学校に入っても腕白ぶりは一向に直らず、3年生の時、一寸して事件で、普段から照道少年を持て余していた学校は退学処分にしたといいます。その事件とは、教壇で切腹の真似をしていたのを先生に見つかり「もういっぺんやれ」といわれて悪びれず再演したという、たわいもない悪ふざけだったといいます。



(今の雨宝院の境内)


照道少年はじめ赤井ハツの一家は、お寺(雨宝院)のお賽銭を適当にちょろまかしていたそうです。父真乗はおおらかで「先刻はいくらあったか」と聞き、紙包を出すと半分だけとり、あとはお前にやるといったそうです。また、若者になった照道は、真乗の金を盗り廓で遊んで帰ると「若いうちは夜あまり外出しないほうがいい」と優しくなだめるだけだったといいます。


(照道(犀星)が、金に困り仏書や茶碗を売ると買い戻したり、信者が預け忘れていた白鞘の刀を売ったり、真乗を困らせることを散々やっていたといいます。それでも犀星の句かどうかは疑問ですが?「この寺に 悪僧住めり 閑古鳥」というのがあります。)






(雨宝院から西茶屋街への道)



(西茶屋街の検番)


犀星は生涯を通じて、21の校歌を作詞していますが、昭和27年(1952)63歳の時、母校の野町小学校の創立80周年記念に校歌を作詞します。犀星が小学生の時、廊下に立たされ窓から見えた瓦を数えた思い出が綴られたというユニークな歌詞の校歌は、同窓生以外にもよく知られていましたが、今年春に、少子化による小学校の統合で伝統の学校と共に校歌も消えてしまいました。



(今年から弥生小学校と合併し泉小学校の仮校舎になった旧野町小学校)


犀星作詞の旧野町小学校の校歌
(1題目)
春もいつしか庭先に
年は過ぎゆく窓よりぞ
ぬれし瓦のかぞえしが
われら育ちし師の教え



参考文献:「室生犀星全集」月報8・田辺徹|文壇資料「城下町金澤」磯村英樹著・昭和54年発行ほか


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