【金沢市内】
「夏の日に匹婦の腹に生まれけり」犀星、戦時中55歳の句です。人生半ばであってもまだ鏡花みたいに素直に「母恋し・・」とはいえぬ呻(うめ)きか。生母への愛と憎しみが混ざった複雑な思いは、後に書く小説の中でも、フィクションとはいえ時代を追うごとに、あの初期の小説「少年時代」に書いた優しい生母は何処へやら・・・。複雑な思いは、晩年に至るまで胸中深く息づきます。しかし、生母への憧憬は生涯消えなかったものと思われます。
(現在の雨宝院)
犀星も鏡花もそして秋声も金沢の三文豪といわれた作家は、若くして俳句に遊び、その俳句が以後に取り組む創作への足がかりとなり、特に犀星は生涯の心のよりどころでもあった思われます。その犀星は、生涯1800余の句を残していますが、明治期に全体の三分の一の600句程が作れています。
(犀星は「俳句は私にとって有難い美しい母胎であった。私はそれにすがって私の愛や幼い情欲やを満たした」といい「自分は俳句で文学的の知識や、俳句から入った文章を手に入れたと言ってよい」と記しています。)
犀星と俳句の出会いは、満14歳のとき、義兄に連れられていった近所に住む俳句の宗匠十逸老人の家を訪れた時だといわれています。犀星は、藩政期、馬廻組の剣術使いの老人と女中の間に生まれた私生児で生後まもなく、生家近くの雨宝院という真言宗の寺の住職だった室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、酷薄の家庭環境と不幸な生い立から、言いがたい少年の孤独に俳句が取り憑いたといわれています。
(義母赤井ハツは、石女の莫連女といわれ、訳ありの4人の子を養育費目当てに引き取とり育てます。犀星(照道)は、その血の繋がらない父、母、兄姉妹と雨宝院の隣の2階家で暮らします。後に義姉は養母の酒代と生活費の足しに身売りさるたと聞きます。)
句作に取り憑かれた少年犀星にとって金沢は、実生活に反して極めて恵まれた環境であったようです。高等小学校を中退し、雇いとして勤めた裁判所では上司に俳句の指導を受け、地元の新聞の俳壇の投稿するようになり、地元の「ホトトギス」系の「北声会」というグループの俳人たちと知り合いになり、その句会に出るようになります。
当時の「北声会」の中心となっていたのが第四高等学校の先生藤井紫影で、あるとき句作に励む少年犀星を見て「句に痩せてまなこ鋭き蛙かな」と吟じ、それを扇面に書いてくれたといわれています。その句は、まさに当時の少年犀星だったそうで、俳句という魔物に取り憑かれた姿が浮かび上がります。
紫影が京都大学の去った後も大谷繞石が赴任し、犀星は師にも恵まれています。その裁判所時代の少年犀星は、毎日仕事が終わると、雨宝院の向にある真宗大谷派は徳龍寺へやってきて「新聞を拝見」と声をかけ、住職が1日遅れで取り寄せて読んでいた大阪毎日、北国新聞のほか、読売、朝日、東京都新聞のすべてに目を通し、中央の詩壇、俳壇、文壇の情報を得て、投稿していたそうです。
(余談:徳龍寺の住職石山智眼は、文学、演劇に造詣が深く、大変な読書家でした。また、智眼夫人は、犀星より5歳年上の15歳で嫁いだ寡黙な人で、犀星の書かれたものによると「子供心にも、まれに見る美女であった。滅多に外には出ない人で、狭い境内に遊んでいても声一つかけない、美女であるためのひややかさを多分に持った人であった。」と書いています。)
参考文献:室生犀星句集・星野晃一編・平成21年8月・紅(べに)書房・「室生犀星論」船登芳雄著・昭和56年9月・三弥井書店・「暮しの手帳」30号おもいでの町「金澤」室生犀星著 1955(昭和30)年7月号・「犀星雑考」石山直樹著・「文壇資料城下町金澤」磯村英樹著 株式会社講談社1979(昭和54)年発行ほか