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室生犀星①犀星のみち

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【犀川大橋→左岸→桜橋→右岸→犀川大橋】
金沢には三文豪といわれている鏡花、秋声、犀星の名前で呼ばれる「みち」があります。「鏡花のみち」も「秋声のみち」も浅野川で左岸と右岸ですが、「犀星のみち」は犀川にあります。



(春!!犀川大橋辺り)


「犀星のみち」は、犀川大橋と桜橋の間の両岸の道で、犀川大橋の左岸の下の袂には犀星が20歳まで住んでいた雨宝院があります。右岸には、室生犀星文学碑があり、両岸で約1.5km、犀星も子供の頃から散策を楽しんだ道といわれています。


(室生犀星(明治22年(1889)~昭和37年(1962))は、詩人で小説家。金沢に生まれで、本名は小畠照道。別号は魚眠洞。詩集は「愛の詩集」「抒情小曲集」そして小説には「幼年時代」他多数。詳しくは次回以後・・・。)



(犀星のみちの標識)


「犀星のみち」は、犀星が“春は春 なつはなつの 花つける堤に坐りて・・・“と詠んでいるように、今も春は、お花見に、夏は夕涼み、そして春、夏、秋を通してジョギングにウオーキング。川幅は広く開放的で、河原は両岸とも遊歩道が設けられています。その先には加賀と越中の国境の山々が連なり、冬には雪山が迫ってきます。



(桜橋より・加賀と越中国境の山々)


私の散歩道は、左岸の犀星が育った雨宝院と交番の間にある秘密ぽい階段を降り、犀川大橋の下をくぐり河原に出ます。知る人ぞ知る隠れ階段ですが、わかったような顔をして人に教えたくてしょうがないという、そんなところがスタート地点です。



(木造4階建てのお料理屋)


しばらく歩くと右手に蛤坂沿いの木造4階建てのお料理屋が見えてきたら、右手の階段をのぼり、左岸の「犀星のみち」に上がると芭蕉と希因の句碑に出会えます。



(芭蕉の句碑)


≪W坂(石伐坂)≫
W坂は旧四高生が坂を横から見るとWに見えるところから命名したと伝えられています。犀星によると、曲がりくねりが変で、今、坂を上った人が、しばらくして頭の上を歩いて行くというへんてこな坂だといい、私(犀星)が10歳(今から115年前)の頃には、すでにW坂といっていたといいます。昔は草ボウボウで、石ころゴロゴロ、樹木は少々、水はしみじみにじみ出していて沢蟹がいたと書かれています。



(W坂)

(桜坂)


今は、「ふるさと坂道30選」に選ばれていて、景観もよく、坂の上の新桜坂公園からは眼下に犀川が正面には金沢城跡が一望できます。そこら当たりは旧石伐町といい、金沢城築城のおり、滋賀県の安太の石工を住まわせたところだといいます。




(新桜坂公園より)

(W坂中腹より医王山と戸室山)


≪桜橋≫
浅野川の梅の橋に対して、桜橋と命名されたと言われていますが?梅の橋には梅がないけど、桜橋の春は、名前の通り桜の名所です。橋から上流150mぐらい先の右岸には、犀星親子が関東大震災の後、金沢で住んだ何軒かの一つが今も残っています。



(桜橋)



(犀星が一時住んだ桜橋右岸上の家)

(堀辰雄が泳いだという堰)


その前の堰は作家の堀辰雄が訪れたとき、泳いだと何かの本で読んだことがあります。また、犀星が後に妻となる浅川とみ子と結婚に至る経緯を書いた「つくしこいしの歌」もこの界隈が舞台となっています。


≪室生犀星文学碑≫
碑文は、「あんずよ 花着け 地ぞ早に輝け あんずよ花着け あんずよ燃えよ ・・・」「抒情小曲集・小景異情 その六」が犀星自筆で記した黒い板が碑石にはめ込こまれています、碑石の形は、昔、市民が子供の疫病払いに犀川に流した「流し雛」を型どった赤御影石で、あんずの木は、塀を背にして立っています。


(文学碑の設計は、金沢出身の文化勲章受賞者に建築家谷口吉郎氏。)



(文学碑)


≪犀川大橋≫
犀星は、“40年前(今から100年前)白いペンキで塗られた巌丈(原文のまま)な木橋であった。その木橋(犀川大橋)から上流の磧(かわら)の向こうにもう一つ木橋(桜橋)見え、加賀連峰と飛騨の山続きとが立ちふさがり、左は少しはなれた医王山が聳えてゐた。”と書いています。


今の犀川大橋は、ワレントラス形式という鉄橋で、大正13年(1924)の完成。この方式の道路橋としては日本で一番古いものだそうです。犀星が書いている木橋の後、今の鉄橋ができる5年前、大正8年(1919)犀川に市電を渡すため、鉄筋コンクリートのT桁橋が架けられましたが、大正11年(1922)犀川の大出水で流失し、橋桁の無い鉄橋に架けられたのだそうです。



(犀川大橋)


それから約90年、1日3万台強の交通量に対応するため補修、補強を加えながら現役長寿橋として今も健在です。今はグラデーションの配色で化粧直しもほどこされ、銘板には金箔が施され掲げられています。


(今の橋は、橋長62,308m副員21,669m~23,669m)で、藩政期の木橋は四十間(72m)三間(5,4m))



(犀川大橋と左岸下の雨宝院)


参考文献:「暮らしの手帳30」おもいでの町2金澤・室生犀星・昭和30年7月5日発行など。


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