【筑前・豊前・播磨・備中・京・大阪】
黒田家を出奔した又兵衛は、小倉の細川忠興を頼りますが、元から関係がこじれていた黒田家と細川家が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁で細川家を退去します。しかし、又兵衛の智勇を惜しんだ全国の大名からお声がかかります。
又兵衛は、一旦郷里播磨に戻り、領主となっていた池田輝政の仲介で岡山の池田忠継に仕えます。しかし、長政が又兵衛への「奉公構」と発し仕官に干渉し、慶長16年(1611)より京都で浪人生活を送ることになります。
(奉公構(ほうこうかまえ)」とは、出奔した武将の登用を禁じる制度です。)
又兵衛は、黒田二十四騎の中でも、最も興味深い人物で、それは他の武将のように黒田家の中には納まりきれず、黒田家を出奔した後も、豪傑らしく波乱に満ちた人生を過ごした人物で有ったことにほかなりません。
(又兵衛と直接関係はありません・人は石垣)
関ヶ原戦後、筑前で黒田家が大大名になり、それで良かった良かったという人物でなく、いわゆる戦国の古武士らしい進退は、天下泰平の世になり、保身に汲々とする武士が多い中で、高禄を捨て、主人を捨てたという極めて稀な身の処し方に、江戸時代からつながる人気の秘密であるのでしょう。
(黒田家の家紋)
しかし一方では、長政との個人的関係だけでは納まらない、出奔の原因が有ったのではと思えるふしもあります。時は戦国の終焉間近という状況において、関ヶ原戦後、戦いが終わり、仕事が戦場の武士にとって、特に豪傑又兵衛には、得意とされた「城取鍛錬之衆」といえども築城や城下町建設に携わる事そのものがたまらなかったという事もありえたのではないかと勘繰らざるをいません。
また、又兵衛の黒田家出奔は、関ヶ原戦後6年目、この間に武辺で鳴らした黒田家中の空気も変質していったように思われます。とくに官兵衛の死後、もはや以前の黒田家ではなく、又兵衛は、その変質に違和感を覚えたのではないでしょうか、“ここはもう自分の居場所ではない”そういう思いに至ったのだとすれば、又兵衛は、まさに時代の取り残された戦国武将であったといえるのではないでしょうか。
(戦後、高度成長期そしてバブル崩壊の間、私の周りの先輩にもそのような匂いのする人が何人かいたような気がします。しかし、これ程の大物には出会ったことはありませんが、何時からか憧れを抱くようになっていました。今、ふりかえってみると勇気も能力も根性もなく、幸か不幸か、それは単なる憧れでしかなかったのです。)
そして、又兵衛は戦国最後の戦い「大坂の夏の陣」に、関が原では敵方として戦った豊臣方に死地を求めて参戦し、真田幸村と並び二大軍師と称され敗軍に属しながらも、今に伝わる何とも凄い歴史上の人物です。