【播磨・豊前・筑前】
金沢城の石垣を調べていたら、あの後藤又兵衛が出てきました。歴史上の人物でも、私には、判官贔屓も手伝って子供の頃から好きな豪傑ですが、最近、NHKの大河ドラマに登場し懐かしさから興味を持ち、今回は少し脱線し又兵衛にします。
前回も書きましたが、加賀藩の石工技術者後藤家の初代後藤杢兵衛の腹違いの兄で、城造りの技を杢兵衛に伝えた又兵衛ですが、黒田官兵衛没後、息子黒田長政と不仲になり、官兵衛が死んでわずか2年後、一万六千石を蹴っ飛ばして黒田家を出奔し浪人します。
どうも、現代風に云うと、無断退職で、「円満辞職」ではないやめ方であったそうです。当然、又兵衛は、黒田家を去るにつけては、長政に申し出ていたそうですが、長政が許さないので、無許可で黒田家を離脱したことから“出奔”ということになったといいます。
(直接の原因は、長政と犬猿の仲の細川忠興と通じているという噂が、黒田長政の元に届き、慶長11年(1606)又兵衛は黒田家を出たのではともいわれています。)
(後藤家の家紋)
黒田官兵衛が生きておれば、又兵衛も出奔などしなかったと思われますが、又兵衛の出奔には、長政との間の個人的な感情のもつれに起因するのだともいわれています。長政は又兵衛より八歳年下で、合戦では常に又兵衛に対抗意識をもやしていますが、いつも又兵衛に先を越され、無念に思っていたともいわれています。
(また、こんな言い伝えもあります。又兵衛は、伯父藤岡九兵衛が黒田官兵衛を裏切り、行動を共にした過去があり、当初、長政は父官兵衛から「反逆人の一族なので、近くに召し抱えてはいけない」と命じたので、長政は家臣栗山善助に又兵衛を預け、知行100石で、その黒田家の家老・栗山善助の家臣(与力)となっています。)
≪又兵衛と長政の逸話≫
又兵衛という人は常にポジティブだったらしく、黒田官兵衛に仕ますが、官兵衛の息子長政と一揆の鎮圧に従ったが敗れてしまいます。長政は頭を丸めて謹慎しますが、又兵衛は平然としていたそうです。
廻りの者が「なぜ頭を丸めないか」と聞くと「たかが一揆に一度敗れたからといって、いちいち頭を丸めていたら、いくら髪の毛があっても足らんといったといいます。「今回は負けたが、次に勝てばいい。そんな事を気にしていたら、合戦など出来ない」といったそうです。
これを聞いた官兵衛は又兵衛の言うとおりだと言ったそうです。勝ったり負けたりを繰り返し、何回負けても最後に勝てば勝ちやということのようです。それより、うまくいかなかった時に、なぜ失敗したかということを学ぶことが大切で、学びと実践を重ねていけば、いつか必ず大きな成果に繋がるということなのでしょう。
(いちいち勝敗の結果に神経をすり減らしていては、疲れて果てるだけで、本質まで見失ってしまいます。自分が負けを認めなければ負けは無いのですから、トータルで勝ち越せばいい・・・という事。)
「次勝てばそれでよし」
(つづく)