【金沢城内】
6代目後藤彦三郎の文書によると、加藤清正等「城取鍛錬之衆」が城の縄張りをし、それに基づき、指図に従って石垣造りに携わったのが安太衆だといわれているそうですが、それは清正の縄張りで熊本城が築かれた時、近江国から率いてきた“穴太衆”が石垣造りに携わったことから、そのように伝えられていたのだと思われますが、穴太衆は、きわめて古い時代から活躍していた石工の集団でした。
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(土橋門の石垣)
≪穴太衆≫
穴太衆とは、近江の比叡山山麓にある穴太ノ里の住人で、延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊で、古墳築造などを行っていた石工の末裔で、寺院等の石工を任されていましたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、信長や秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになり、それ以降は江戸時代初めまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られています。
(余談:信長が坂本の城を攻めたとき、石垣が丈夫でなかなか落ちないので、この石垣は誰が築いたかを尋ねられ、安太のものが築いたと聞き、それで安太なら崩すこと出来ると思い、早速召し出されて石垣を崩したという言い伝えがあるそうです。)
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(石川門の石垣)
前田家との繋がりは、前回にも書きましたが前田利家公が越前府中で始めて大名になった時、初代穴太源介、小川長右衛門が召し抱えています。穴太家文書によると、金沢城の石垣職人「穴生役」として天正15年(1587)から加賀藩に仕えた穴太家は、日本で始めて大名家が召し抱えた石工集団だそうです。
(金沢城調査研究所の調査によると、金沢市内の穴太家の子孫が所蔵する古文書35点には、前田利家公が穴太家初代源介に宛てた「知行宛行状」に利家印判状の入った古文書があることから、穴太家が石垣職人で最も早く大名に召し抱えられたことが裏付けられたそうです。)
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(東丸下の石垣)
穴太家古文書には、2代利長公や3代利常公、5代綱紀公からの知行宛行状や、穴太家の家譜、石垣作りの功績などを記した史料や同じく穴生役だった後藤家の初期秘伝に共通する「石取并石図覚」も確認され、親類である穴太家と後藤家の技術交流の一端がえるそうです。
(穴太役とは加賀藩での職名で、石垣技術者として藩政期の築城で役割を発揮しています。後藤家は穴太の里の出身ではありませんが、穴太役で穴太家とは親戚だそうです。)
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(金沢城調査研究所の資料より)
≪後藤家≫
大筋は前回書きましたが、今残る後藤家文書は、6代後藤彦三郎が書き残したもので、執筆の契機も彦三郎が大病を患い、解明した技術様式を子孫に残す必要性に駆られたためといわれています。大病をわずらったのは49歳の文化元年(1807)から病死の4年前の文政7年(1824)に集中しており、著者は彦三郎または嫡男小十郎が大半だそうです。
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(土橋門下の石垣)
秘伝書の中には初代杢兵衛、2代杢兵衛や3代権兵衛の著書もあるそうですが、その頃のものは確立されていない技術が記されるなど矛盾点が多く、筆跡調査でも彦三郎のものと一致したものもあるそうです。
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(石川門)
彦三郎が先祖の名で書いた秘伝書は、加藤清正から伝わったとする由緒や、象徴となる鏡石を置く位置、積み方の種類などを和歌に詠んだものは、抽象的な内容が多く、“他言禁止”“一子相伝“が、かなり強調されていて、加賀藩が抱える他家の石垣技術者への対抗心や牽制があるのでは、といわれています。
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(本丸の石垣絵図・金沢城調査研究所の資料より)
金沢城の石垣構築技術は、彦三郎が活躍する前の18世紀前半、修復の機会が少なくなり途絶えかけていたそうですが、彦三郎が石垣解体・修理で自ら学び取った技術的な理論や口伝を文書にまとめたことで、穴太の技が辛うじて再興されたのだといわれています。
参考資料:「金沢城調査研究所」の調査資料など。