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金沢城の石垣①後藤家文書

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【金沢城内】
毎週日曜日8時は、大河ドラマ「黒田官兵衛」。あの後藤又兵衛が、何時も苦渋に満ちた顔で地味に描かれています。子供の頃、雑誌や漫画で見た又兵衛は豪傑で、黒田官兵衛や黒田長政より身近な存在で、というより当時は、そこに描かれていたはずの官兵衛も長政も目には入っていなかったのです。



(金沢城の石垣)


実は、加賀藩では3代藩主前田利常公の頃より、後藤家の人々が金沢城の石垣の技術者として登場し多くの古文書を残しています。初代の後藤杢兵衛は後藤又兵衛の弟で、今から387年前、寛永4年(1627)の加賀藩の侍帳に70石として記載されています。


(加賀藩に仕えた石工技術者安太衆は、後藤家より古く前田利家公が越前府中(現在の越前市武生地区)で始めて大名になった時、今の滋賀県坂本の穴太出身の穴太源助、小川長右衛門が召し抱えられました。寛永4年(1627)の侍帳に穴太出身者として、杢兵衛より高禄の300石の戸波清兵衛、100石の杉野久左兵衛、他50石、40石クラスの石工技術者が記載されているそうです。)


(金沢城の石は戸室石(角閃石安山岩))

石垣の技術者としての後藤家の始まりは、後藤又兵衛が加藤清正からしばしば「城取鍛錬」としての技術を伝授されたといわれ、後藤家文書によると「加藤清正」が石垣築きの祖、次が黒田長政と書かれているそうです。



又兵衛は、夏の陣の前に腹違いの弟の彦八(後の初代後藤杢兵衛)に、自分の最後が近づいたのを悟り、これまで学んだ成果を書き残し元和元年(1615年)4月に秘伝を伝授たといわれています。


(この書は『石垣根元抄』といい、「元和8年(1622)以来家宝とし、一子相伝にて他にこれを許さずのもの也」として、以後、後藤家最大の財産になったといわれています。)



(石川門の石垣)


6代目の彦三郎(享和・文化年間)は、後藤家は穴太では無いのにある御殿の「石の橋」に穴太の名を入れたことが殿様にわかり、ひどく叱責をうけ、禄を召し上げられ浪人をしますが、後に許されて復活したという逸話が残っています。


(運んだ家の印か?刻印のある戸室石)


しかし、その後藤家は、由緒5点をはじめ役儀、相続、俸禄、縁組、法事など後藤家自身に関するものや、秘伝書17点、石垣積様秘伝絵図41点、金沢城絵図4点等々「後藤家文書」として200点余りが残されていたので、今は加賀の石垣については、穴太より後藤家の方が有名です。



(初期の石垣か、野面積?)


(6代目彦三郎は養子です。彦三郎によると、築城について石垣縄張りの巧者は、歴戦の勇士(武辺場数之士)で、加藤清正や黒田長政はその「城取鍛錬之衆」で、安太の職務は、「城取鍛錬之衆」の縄張に基づいて、その指図に従い、石垣を築く人を安太といったとか・・・。)



(石垣見本・切り込みはぎ)

(石垣見本・打ち込みはぎ)


又兵衛に戻りますが、黒田二十四騎の一人で、仲間氏の松尾城、いわれる筑前六端城(ろくはじょう)の1つを築城しています。行った事はありませんが、今も城郭の基礎部分、石垣、礎石が残っていると聞きます。

この城は、豊臣軍の九州征伐で、敵方に対して一夜にして城を築いたかのように見せかけた「一夜城伝説」が有名だそうですが、その後藤又兵衛の築城技術が金沢城の石垣に伝わっているのだとすれば、金沢人としては何か縁を感じます。(私だけかも)これからも日曜日8時のテレビを見るのが、ますます熱が入ります。



(金沢城石川門の石垣)


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