【金沢・尾山町】
尾山神社は、慶長4年(1599)に大坂で亡くなった前田利家公に始まります。遺言どおりに金沢の野田山に葬られ、その後、2代藩主前田利長公によって、金沢城の鬼門の方角(東北)にあたる卯辰山麓に、越中国射水郡の式内社物部神社(守山海老坂)に併祀されていた八幡神を勧請して、卯辰八幡宮(今の宇多須神社のところ)が建立され、そこに利家公の霊を合祀し、加賀藩を守護する存在として祀られました。
(慶長9年(1604)各藩臣の知行に応じて献金させ、前田利家公の祭祀が行われます。当時加賀藩では、徳川幕府に対し、おおっぴらに利家公を神として祀る事が出来ず、養老年間より卯辰神を祀ったといわれる卯辰山麓に八幡神を遷座させ、合祀する事により利家公の神霊を祀ったと伝えられています。)
時代は下り明治4年(1871)の廃藩で、藩主前田家は華族となり、東京に移ることになり、寂びれるばかりの卯辰八幡宮を元加賀八家の前田直信を代表とする旧藩士たちが、藩祖の偉功を守るため、社殿を再興する運動が起こされます。
そして新たな社殿には卯辰山麓ではなく、金沢の中心部金沢城の出丸金谷御殿跡地が選ばれ、明治政府に請願し明治6年(1873)に本殿、拝殿が建てられ、卯辰八幡宮から御神体が遷座。尾山神社と称されました。明治7年(1873)には県社に昇格し明治35年(1902)に別格官幣社に列せられました。境内摂社に歴代藩主を祀った金谷神社があります。又、平成10年(1998)には前田利家公の正室お松の方も合祀されました。
現在の金谷御殿跡地は、明冶2年(1869)版籍奉還で一旦明治政府に返還されますが、旧加賀八家の前田直行が中心になり、後に2代目の金沢市長になる長谷川準也や弟の大塚志良等により、豪商の木谷家の番頭の名義で一旦土地を買上げ、寄付により明冶6年(1873)に創建されました。
明治6年(1873)11月に遷座式が挙行されますが、次第に寄進も参詣も減少し、神社の維持も困難になり、参詣者の増加を計画し、明治8年(1875)11月25日に神門の開門式が挙行されました。当日は早朝から雨模様にも関わらず、めずらしもの好きの金沢人に大うけで、大変な賑わいだったと伝えられています。
やがて、そのデザインが異様だということから、改造論が新聞紙上をにぎわし、献金集めの発起人に名を連ねる野村某は、発起人代表の一人長谷川準也の政敵、金沢市長の稲垣義方に「彼の醜形門は断然改築候様の希望仕候」などと私信を送り付けたといわれています。
当時、金沢に来た小説「五重塔」を書いた幸田露伴や俳人の河東碧梧桐などの著名人が「レンガつくりの竜宮城」等と、煽るものですから、ますます反対運動が激しくともいわれています。
(神門は昭和10年国宝に指定され、戦後、昭和25年に重要文化財になりました。)
詳しくは下記と併読いただければ幸です。
参考①:初詣
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11439946188.html
参考②:金沢製糸場《鞍月用水⑤》
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11826524545.html
設計者については、長らく金沢藩のお抱え医師のホルトマンだといわれていましたが、神門改修の時、棟札が発見され、そこには建築総管は藤田貴知、設計は工匠長であった津田吉之助だということが分りました。
ホルトマンについては、神門の上に立つ、日本では最初といわれる避雷針の指導と助言をしたのではといわれていますが、他、彼の足跡が金沢に幾つか残っています。
明治11年(1878)「金城霊澤」に繋がるといわれる金沢神社の手水鉢に涌く水をホルトマンが分析しています。水は「良質の甘水で、殆ど混合物がなく少しく硫化シャンカリの応験があり軽量の鉄を含むとし、効果は、貧血及び心臓の衰弱せる人に効く」と書かれているそうです。
また、彼は金沢で最愛の2人の娘を亡くしています。当時、尾山神社の宮司により葬儀が執り行われたと聞きます。卯辰山の共同墓地にはカタカナで書かれた墓標が残っています。
●尾山神社のご神徳は、家内安全・夫婦円満・開運招福・学業成就・商売繁盛です。
(尾山神社の一隅には、昭和12年に建立された皇大神宮と明治神宮の遥拝所が碑が、東と南を向き、今も毅然とそしてひっそりと建っています。)