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尾山神社①金谷御殿

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【西町→南町】
先日の“近江町”から“せせらぎ通り”を歩いた「金沢まちなみツアー」の続きです。設計者の解説付きの金沢商工会議所を経て、藩政期の堀の跡を歩き、今はありませんが明治17年(1884)焼失した鼠多門と金谷御殿を繋いでいて、再建を計画している鼠多門橋が有った下を通り、尾山神社の東神門から神域に入れました。



(東神門)


(東神門の二頭の龍)

(藩政期、鼠多門と鼠多門橋、橋は明治10年老朽化により撤去)


東神門は、旧金沢城二ノ丸の唐門で、桃山風御殿様式とされています。宝暦9年(1760)の金沢の大火で城内の大半が焼失しますが、この唐門に彫刻された二頭の龍が水を呼び類焼を免れたと伝えられています。明治14年(1881)の金沢城(陸軍7連隊の兵舎)火災の際には、明治の初め招魂社の門として卯辰山に移築されていたため、またも龍のご利益で焼失を免れたと言われています。


(1本の釘も使用されていない彫刻は、名工の作と伝えられていますが作者は不詳です。)



(尾山神社東参道)


尾山神社は、明治以後、加賀藩の藩祖前田利家公と正室松を祀った社で、藩政期は、藩主の仮御殿や隠居所、世子、側室らの住居になっていた金谷御殿があった場所で、境内には御殿の遺構の庭園が残っています。



(藩政期の金谷御殿周辺)


庭園は池泉回遊式で、中心の池には、雅楽の楽器をかたどった笙島(しょうしま)、琵琶島、舞楽の衣装を表した鳥兜の三つの島があり、島をめぐるアーチ型の図月橋、琴橋が架っています。藩政期、御殿の住人たちは、九十九折りの水路を伝わる水の音を楽器が奏でる音色に見立て楽しんだのでしょう。


(庭園の略図)

(琴橋と図月橋、鳥兜島)

金谷御殿は、明治4年(1871)加賀藩最後の14代藩主前田慶寧公が東京へ移住を機に取り壊され、現在は建物の遺構はないが、その古材は、今の尾山神社の建物に使用されていると聞きます。



(八ツ橋)


残された資料によると、敷地は約7~8千坪(約23,100~26,400㎡)、幕末期の部屋数は40以上であったといわれています。始まりは5代藩主前田綱紀公の代で、古文書には、元禄元年(1688)に綱紀公の娘豊姫が金谷御殿に移ったと書かれてあり、建物に限らず、部屋の調度品なども身分の沿って立派なものが設えてあったものと思われます。以後、御殿は約200年間にわたり、6代藩主吉公側室淨珠院、世子で7代宗辰公、9代重靖公、10代重教公、11代治脩公、12代斉広公の正室真龍院、13代斉泰公らの主を迎えています。



(図月橋)

天保9年(1838)亡くなられた12代斉広公の正室真龍院が江戸藩邸から金谷御殿の入り、江戸にいた世子慶寧公も初めての金沢入りとなり、弘化二年(1845)から金谷御殿に住むことになると真龍院と慶寧公のため金谷を増改築され、真龍院に住居を「松の御殿」慶寧公の住居は「金谷御殿」と呼ばれるようになったといいます。

(東神門の解説板)


参考文献:「よみがえる金沢城」石川県教育委員会事務局金沢城研究調査室編集・石川県教育委員会・平成18年3月発行など


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