【藩政期の金沢町】
200年以上前の享和3年(1803)に加賀藩が幕府に提出した記録によると、金沢町奉行支配の町会所が管理していた町は100数町(侍町との混在は含まず)有ったといわれています。その他それぞれの町に属した“小名”という通称が約60数町。幕末になると“小名”も含めると200数10町だったそうです。
(明治になると、藩政期の侍町が正式な町になり300数10町になり、明治22年に市制が引かれ金沢町から金沢市になりますが、人口が減っているのに500数10町になっています。)
(藩政初期から本町の上・下材木町)
藩政期の金沢では、正式な町は、町人町にしかなく、侍町には、彦三や長町、馬場など通称はありましたが、武士は軍事上、組支配になっていたので、住んでいるところで武士を支配しなくていいことから、正式な町名は必要なかったということらしい・・・。
町人は、町奉行支配で、今の北国銀行裏にあった町会所が町単位で管理していていました。そのため公的な町名が必要だったのです。当時の町政は、武士身分の役人と町人身分の役人によって行われ、武士側の責任者として金沢町奉行がいて、町奉行は金沢町の行政、司法、警察をつかさどり、その下には町同心・町下代・町付足軽などの役人がいます。
町人側には町年寄(毎年3人扶持、役銀として銀5枚・元禄4年より3人)、散算用聞(役料として毎年銀20枚。役銀、地子銀徴収など)・他、横目肝煎・町肝煎の他に銀座や記録方、米仲買・酒・八百屋・伝馬など各種商売に関わる肝煎などの町役人がいます。役人は、決められた日に町会所に出勤し職務に従事したといいます。
町人の町には、町格が決められていて、“町の歴史”とか”盛んな事“”賑やかな事”もさることながら、実は、現実的で租税の内容や納入方法の違いが基準になっていました。大きく分かると、「本町」「七ヶ所」「地子町」で他に門前町と相対請地がありました。
本町(ほんまち):古い由緒ある町で、地子銀(土地に対する税)は、免除されていましたが、夫役(ぶやく)と役銀(やくぎん)を課せらました。町の格付けでは、最上位に位置づけられました。町数は藩政初期とはかなり違いますが、元禄期も幕末も大体37町前後だったそうです。
(夫役:藩主が普請・掃除・交通などのために、領民に人足役を賦課していましたが、藩政中期以降、銀で納付するようになり「夫銀」「夫役銭」などと呼ばれるようになります。役銀:伝馬役銀・本町木戸等普請入用の負担金のことか・・・。)
七ケ所(しちかしょ):町の格付けでは、本町の次に位置づけられ、夫銀が課せられた。石浦町、大工町など、7ヶ所ありました。そのため、七ヶ所と呼ばれました。町数は、後に20町以上になります。
地子町(じしまち):地子銀(土地に対する税)を払う町のことで、金沢の六枚町は地子銀(税)が年に6枚という事から付けられた町名だといわれています。因みに銀1枚は43匁だとすると、6枚では258匁、文政の頃、今の貨幣価値では、60匁(1両)が100,000円として計算すると約43万円か)
≪参考≫
本町肝煎は、1町から13町、軒数は64軒から913軒の裁許。町数で、平均すると4町180軒となるそうです。一方、地子町肝煎の裁許数は、6町から17町で、413軒から576軒で、平均11町517軒となっていたしうです。
組合頭は、町肝煎の下には組合頭が置かれました。金沢の各町内は、10軒前後の町屋が一つの組を作っていました。これを十人組といって町を構成する最小単位です。この十人組を数組合わせ、その責任者が組合頭です。
組合頭の裁許軒数は、20軒から100軒と地域により大きな違いはあるが、平均すると60軒程度になっていたそうです。組合頭の主な任務は、町肝煎の元で人別の調査・掌握、藩令の廻達、願書の取次、家の売買、相続など、町人生活に直接関わる事項を取り扱った。
参考資料:平成25年秋季展「金沢の町役人」近世資料館の資料等