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“秋声のみち”

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【梅の橋→中の橋】
浅野川左岸の“鏡花のみち“から「梅の橋」を渡ると徳田秋声記念館があります。有名な料理屋が火災に遭い空き地になっていたところに平成17年(2005)に開館。その頃、右岸の”梅の橋“から”中の橋“までの川沿いの道が”秋声のみち“と命名されました。


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(梅の橋と徳田秋声記念館)
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(左岸の"鏡花のみち"の標識)
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(徳田秋声記念館)

この道は、旧御歩町1番丁から浅野川大橋へ、さらに橋爪を下り旧下博労町手前の中の橋までの約400mですが、“鏡花のみち”の対岸で、また、秋声記念館の前の道!というのも有りかもしれませんが、それよりズ~ト、ズ~ト前、徳田秋声(末雄)が少年の頃、この界隈に住み、浅野川で遊び、飯を食わなくっても観たかったという芝居や小学校に通った道だったといいます。


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(秋声のみち界隈)

“向山等(むこうやまひとし)”がこの世に出て来たのは、・・・で始まる、“秋声”が晩年(昭和13年)に書いた自伝小説「光を追うて」は、フィクションですが、向山等は少年時代の秋声である事は明らかで、文章によると、預けていた「秩録公債」が焦げ付き、その形で、金沢で3度目に一時的に住んだ家のことが書かれています。文章では“閑静ないい場所”とあり、“後にまた人手に渡ってから、しばらく料亭になっていた。“と書かれています。


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(秋声が少年時代に住んだ家が、花月庵という料亭になる)


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("秋声のみち”①右側植え込みの駐車場が徳田秋声が住んだところ)
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(木札は、徳田秋声が住んだところの説明板)

(当時の武士階級は、明治9年(1876)全華士族に対して家禄に応じて「秩録公債(金禄公債)」が交付され、300年に及ぶ家禄が廃止されます。金沢藩でも1万4800人余りがこの処分を受けます。当時、公債による利子収入は、旧家禄でいうと100石取り前後の武士層でも、利子は日収20銭がやっとで、当時の土方人足の日給25銭。大半の士族はそれ以下の収入水準に突き落とされ、さらに超インフレで公債を預けていた金融会社がことごとく倒産し、多くの武士階級は困窮に陥っていきました。秋声の家も同様だったと聞きます。)


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(”秋声のみち"②)


向山等(徳田末雄)の住んだ家は、旧御歩町1番丁にあり、土塀の外まで枝がつるまった豊後梅(八升成り)の大木があり、庭いっぱいに枝を延ばし、裏庭に柿木が2本、“すもも”や“ぐみ”のような果樹があったと書かれています。多分、それなりの武士の屋敷であったように思われます。


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(”秋声のみち”③)

さらに“私はその家に来てから、はじめて男友達と遊ぶ事を覚え、山に行き、前の川で泳ぎに行き、1里半ほどある松並木の往還を歩いて、初めて海にも行った。”と書かれています。前の川とは、“浅野川”であり、松並木の往還は“金石往還“そして海とは“金石の日本海”であることは言うまでもありません。


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("秋声のみち"④ゆりかもめ)

さらに、その辺りに住む血気盛んな凄い少年達の仲間に入り、姉の友達とばかり遊んでいた臆病で気弱で女々しい気分からいくらか脱け出ることが出来たと書き、しかし、臆病風は本性で、いつになっても変わらないモノとし、よく呼びにくる生意気に才はじけた優れた少年”佐野健吉“を恐れています。彼は乱暴なことは乱暴で、そのふるまいに怯えている様子は、私も含め多くの人の子供の頃を呼び覚まします。

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(”秋声のみち”⑤中の橋から)

“首を押さえられ、いきなり深い淵の中にしずめられ、水を呑まされたり”“闇の中で不意に長刀を抜いて峰打ちを喰らわせられたり”“学校へ行きがけの、母親の小言に、いきなり平手打ちを打った”等々、向山等(末雄)ならずともと、フィクションである事をさっ引いても12,3歳の少年であれば、誰であろうともその怖さは変わらなかったことでしょう。


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(中の橋の”秋声のみち”の標識)


さらに、「光を追うて」には、その道を抜けて、芝居小屋に行った思い出が書かれています。幼年期がその芝居小屋の全盛期とかで、“小屋の前の両側に20軒もの芝居茶屋があり、俸禄が公債に換えられた当時の町の享楽気分が名残を留めていた”と書き、川沿いに引っ越した頃には、大阪から大きな役者の乗り入れはなくなっていたとは言え、2,3流どころの腕達者な役者を迎え、お家騒動物や武勇伝が掛かっていたと書かれています。


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(芝居小屋は藩政期の馬場の跡にありました)


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(芝居小屋と芝居茶屋があったところ)

「光を追うて」は、自伝小説とはいえフィクションであり、多少の誇張や思い込み、思い入れも有るものと思われますが、それでも秋声の筆は、明治の初めの浅野川右岸の風景と生活が、私には、まるで有りのままのように伝わってきます。


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(関助馬場跡の石柱)


“秋声のみち”

向山等(末雄)少年が飯も食わずに、芝居観たさに駆けている姿を想像しながら歩いてみませんか・・・。

参考文献:徳田秋声著「光を追うて」など


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