【姫路→京都→金沢】
武田秀平は、安永元年(1772)姫路藩藩士花井四郎兵衛の11男に生まれ、本姓は花井。名は信興。彫号は友月。陶号は民山。京都で活躍していたところ加賀藩八家の前田直方に見出されて、40歳を越えた文化11年(1814)金沢へ招かれました。12代藩主前田斉広公のもとで、加賀藩御細工所の御細工者小頭並に召し抱えられます。また、斉広公の隠居所となる竹沢御殿造営方や、金山方主付などを勤めます。多芸多才で知られ、友月と号した木彫は特に優れ、「盆石」では景雲堂と号し、書画もよくしたといわれています。
(今、武田友月作といわれる、謁見の間の欄間がある成巽閣の玄関)
武田秀平は“民山”と号し、文政5年(1822)、青木木米によって築かれ廃窯になっていた春日山窯を再興します。木米帰京後、弟子で若杉窯に移った本多貞吉の高弟山上松次郎らを招いて民山窯を開き白磁を製し、里見町の自邸に錦窯を築き、絵付を行います。
民山窯は、赤絵の細描が特徴で、金彩や上絵の彩色を行ったもので、製品として、主に煎茶器や酒器などが作られ、素地は淡い赤褐色の磁胎で、全体に粗い貫入がはいります。図柄は中国風文様や写生風草花など独特のデザインで表現され、印款は「民山」と書き、従来の九谷のように「角福」とか「九谷」など文字は書かれていませんが、民山窯は、赤絵九谷の元をなした功績は大きく赤絵九谷の元祖といえます。
(宮本窯とは先後問題で論争がありますが、今は民山窯が先というのが通説。)
しかし、技巧においては素地も絵付けも、今風にいうと“一寸ダサ”く洗練の域に達せず、むしろ他窯の技工に比べて見劣りするものであったといわれていますが、のちに宮本屋窯の八郎手に受け継がれていきます。民山窯は22年間続き、弘化元年(1844)秀平の没後廃窯となります。
(八郎手とは、染色業者の上絵師飯田屋八郎右衛門が加賀の大聖寺で宮本屋窯の絵付けに従事し、細い赤色の線描きで細密な下絵を描き,金彩を加えた独特の金襴手(きんらんで)を作ったものを「八郎手」といい、九谷を代表する赤絵の技法で、現在も福島武山や見付正康の作品に見られます。)
(竹沢御殿の書院前の庭園(七福神山)、秀平は竹沢御殿造営方を勤める)
「盆石」は、石を盆に載せて鑑賞する趣味で、中国より渡来し,室町時代の室礼(しつらい)として書院飾りに珍重されるようになり、銘をもつ名石も現れます。江戸時代中期以降になると「盆石」は文人趣味の一つとして流行します。秀平は景雲堂と号して盆石でも一派を開いています。
(武田秀平の肖像画の模写)
武田秀平が民山窯を始めたのは、春日山窯廃絶を惜しんでのことと伝えられています。しかも50歳になっていた秀平は、職人を集め自ら様々に工夫をした製品を作ったとされていますが、このような人は、金沢には、武士でも町人でも余り例のない人物です。
他に、書画・木彫のほか蒔絵ほか手仕事に長じ、また、多数の職工の養成もします。特に木彫に独自の優れた技を持ち、その技量は今も、成巽閣謁見の間の彩色豪華な欄間や、硯箱などの調度品に見られ、他にも、中村神社拝殿(旧金沢城二の丸御殿にあった能舞台の欄間)、元本多家の松風閣の欄間、金城霊澤の扁額の彫刻、石浦神社の“三井寺の弁慶の引き摺り鐘”の彫刻など、旧藩内では多くの作品を見ることができます。
(成巽閣の謁見の間の欄間・絵葉書より)
(中村神社の拝殿の欄間)
(金城霊澤の扁額の彫刻・書市河米庵)
(石浦神社の弁慶の引き摺り鐘の彫刻)
(成巽閣謁見の間の上段と下段の境の“欄間”は檜の一枚板の透かし彫りで造られ、「白梅」が一面に咲き乱れる中に、「青い鳥」と『赤い藪椿』が葉の緑とともに浮き立つように極彩色の岩絵具で彩られて、今もその見事さに見入ります。)
参考:平成20年(2008)に開催された、卯辰山工芸工房特別展資料他