【金沢・兼六園】
北陸新幹線が開通して、兼六園もテレビなどマス媒体などの露出が多くなって、いつも歩いている兼六園の新情報をテレビで知ることがあります。たとえば花見の来場者が例年の1,7倍だったとか、今年は久々に年間200万人を越えそうだとか等々。これなどは、”ヘィ~“と口に出る、うれしいニュースです。
それからガセネタと思われる情報もありますが、これはいまさら始まったことではなく、歴史ですから、今までも以前に幾つも例をあげました。新史料が発見されたりしると定説が覆されたりします。それも見方、聞き方ですが兼六園ファンのよろこびの一つで、兼六園の奥の深さに触れる機会であり、足を運ぶ切っ掛けになっています。
今回は、“兼六園“という名称です。従来、兼六園の名が、白河藩主・松平定信(楽翁)によって、中国・宋の時代の書物「洛陽名園記」から引用されて付けられたとか、詳しいことは分からないとしながらも「新石川情報書府」”兼六園名園記(平成6年度)“をはじめ多くの兼六園関係のブログや案内書に書かれていますが、実際には松平定信が引用したものではなく、定信は扁額に揮毫しただけだったそうです。
(長山直治著「兼六園を読み解く」には、命名については諸説あるとしながらも、結論として、「定信が兼六園と命名し、揮毫したと考えた方が自然である」と書かれています。)
一般人としては“何じゃそっか”で終わることですが、研究者や学者にとっては、私が思う以上に大変な事だったようで、ほぼ定説化していた事なのに、いろいろ考察しながらも、そのまま踏襲した事に自分を許せなかったのか、今は無き長山先生は、以後、兼六園に関する講演毎に、間違えだったと、お詫びをされた誠実さ、そして命懸けの研究だった事を思うと、只々頭が下がるばかりです。
(ちなみに、現在の兼六園のパンフレットの沿革では、かって「斉広は、奥州白河藩主・白河楽翁に庭園の命名を依頼した。」と書かれていた箇所が削除されています。)
(朝の霞ヶ池)
≪以下「石川新情報書府」を一部そのまま引用≫
園圃之勝 不能相兼者六 務宏大者少幽邃 人力勝者少蒼古 水泉多者無眺望 兼此六者惟湖園而巳
・・園圃之勝
相兼ねる能わざるは六
宏大を務るは幽邃少なし
人力勝るは蒼古少なし
水泉多きは眺望難し
此の六を兼ねるは惟湖園のみ
[兼六園の命名]
兼六園の名は斉広が奥州白河藩主・松平定信(白河楽翁)に依頼したというのが定説である。楽翁が来沢したという記録はなく、斉広も竹沢御殿築造前の文政元年(1818)にはもう金沢にいたので、楽翁には直接ではなく、家臣を通じて依頼したものであろう。竹沢御殿が完成した文政5年(1822)に、楽翁から「兼六園」の揮毫が届く。5代藩主綱紀の蓮池庭から約150年、加賀藩主の庭は「兼六園」と命名された。
加賀藩主に命名を依頼された定信は、兼ねることが無理な6つの魅力を兼ね備えていたという中国の名園にちなんで、「兼六園」の名を贈った。当時、千歳台の一帯には、竹澤御殿が立ち、今のような霞ヶ池や曲水もなく、現在とはほど遠い姿であった。また、定信が実際に加賀を訪れた記録もない。加賀百万石の藩主の庭にふさわしい名前として名付けたのだろうか。詳しいことは分からないが、その名にふさわしい名園として、現在に受け継がれていることは確かである。
宏大・幽邃(ゆうすい)
兼六園を歩くと、霞ヶ池周辺に代表される明るく開放的な景観と、黄門橋や常磐岡辺りのまるで山峡のような奥深さとの対比に驚く。時々の藩主の好みを反映して造営された部分が、違った個性となって今に存在しているのだ。これには、兼六園特有の高低差の大きな地形がうまく関与しているともいえる。全体を眺めることが出来ないゆえに、奥行きが生まれ、豊かな表情を見せてくれるのである。
人力・蒼古
「人力」とは人の手がかかっているということ、「蒼古」は昔ながらの自然を感じさせるという意味である。兼六園は、もちろん、隅々まで人の手をかけて造られた庭である。しかし、まるで自然のままのような風景が数多く存在する。山崎山や苔むした園地は、まさに蒼古の趣きであり、翠滝とその周辺も自然の姿のように見える。また、橋や塔など人工物と植栽や水の流れとの調和の見事さも大きな特徴である。
水泉・眺望
「水泉」と「眺望」は、他の庭園には少ない、兼六園最大の特徴であるといわれる。
兼六園はどこを歩いても水の流れの美しさを感じることができる。これほど高低差のある土地に豊富な水を提供してきたのは、江戸時代初期に造られた「辰巳用水」である。
眺望台からは日本海や内灘砂丘、白山につながる医王山の山並みが一望にできる。夕顔亭のそばにある「汐見橋」は日本海の潮が見えたことからその名が付いたという。現在は木立に囲まれ遠くを見ることはできないこのあたりからも眺望が楽しめたことが伺える。
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房2006年12月発行・「石川新情報書府」http://shofu.pref.ishikawa.jp/ 他