【金沢・兼六園→野町】
西茶屋資料館の2階の音声ガイドに芥川と「しょっぽ」の話が少し出てきます。ご存知の方も多いと思いますが、芥川は早世した小説家の芥川龍之介のことで「しょっぽ」は、にしの茶屋の芸妓です。「しゃっぽ」とは帽子のことらしく、情緒も色気もない源氏名ですが、金沢のにしの茶屋では昔から”進取の気性に富み”大正の頃にはお客様を驚かせようと「しゃっぽ」のほかにも「飛行機」や「ラジオ」など、新しいもん好きなのか風変わりな源氏名を持つ芸妓がいたといいます。
(芥川が泊ったという、兼六園に有った三芳庵別荘、平成20年(2008)まで)
芥川と「しゃっぽ」との出会いは、大正13年(1924)5月15日、芥川が犀星の招きに応じ金沢を訪れた時でした。芥川を金沢駅に迎えた犀星は、兼六園内の宿に案内し、そのあと川岸町の犀星宅へ、16日の夕方には、今も金沢では一流の料亭つば甚へ川魚を食べにいきます。その時、犀星は、かなり無理をして西茶屋より3人よんだ芸妓のうちの1人が「しょっぽ」でした。
(室生犀星)
(芥川の金沢での宿は、泊めることが禁じられていた兼六園内の三芳庵別荘です。犀星の俳句の先輩桂井未翁が掛け合い県や警察の許可をとったというもので、昔、乃木希典も泊った古いお茶屋で、その頃は、宿泊は出来ないが句会などに利用されたていた御茶屋でした。現在は跡地が残っているだけですが、詳しくは次回に書きます。)
つば甚では、3人の芸妓が芥川と犀星の間に入ります。芥川は、蚕のような色白で細身の「しょっぽ」を、ちょっと顔をみたあと、しばしば目をこらし見返しては“うむ”というようにため息をついていたといいます。そんな時「しゃっぽ」は、“聞いてもいいでしょうか“と白檀の香を焚きながら「小説をお書きのなる芥川龍之介さんでしょう。」と名前を言い当てられ、芥川は照れて犀星に「金沢って遊ぶのにいいな。」といったといいます。
彼女たちがすっかり気に入った芥川は「僕の宿へ行こう」といい3人を三芳庵別荘に伴います。翌朝、犀星が訪ねると夜明けまで、短歌を書いたり、花札をしたといって芥川は蒼白い睡眠不足の顔をして「しゃっぽは美人だなあ。だが、もろいね。」と繰り返し、「或る種類の端麗な女の中には、夜が更けるに従い、睡眠不足であるためにも一層冴えた美しさをみせる女がいるのであった。疲れるごとに美しさが殖えていく女というものは10人に1人ぐらいいるらしいが、しやっぽの美しさはそれに違いなかった。」いったとか・・・。
翌17日、北間楼での芥川歓迎の句会のあと、芥川達は、にしの「のとや」にあがります。「しゃっぽ」は「のとや」の養女で、奥に建て増しした「しょっぽ御殿」というところに裕福に暮らしいました。
(芥川は「しょっぽ」という情緒のない名前をつけた者に憤慨し、肉屋の金持ちの旦那がいる事にさらに憤慨したといいます。「しょっぽ」は当時19歳、その後、その肉屋の金持ちに落籍され、3人の子供を生み、胸を病んで昭和7年(1932)27歳の若さで亡くなったといいます。)
19日の夜、芥川は京都に発ちます。芸妓たちは、九谷焼や大樋焼など手土産を持ち駅に送り出て芥川を喜ばせます。芥川は京都のほしいものがあれば送ってあげようといいますが、「しょっぽ」は、ほしいものは別にないから長い手紙を戴きたいわ。と答えたといいます。
昭和2年(1927)、芥川の死を知った「しょっぽ」の病状は悪化したそうですが、手紙を表装して床に掛け、最初に芥川に会ったときのように香を焚き冥福を祈ったといいます。
参考文献:文壇資料「城下町金澤」磯村英樹著 講談社 昭和54年9月15日発行