【金沢・兼六園】
大正13年(1924)年5月15日。芥川龍之介は犀星の計らいで、泊ることが禁じられていた三芳庵別荘に4泊します。そして5月16日の朝、感激の様子を無二の盟友小穴龍一に書き送っています。
(かって、別荘より瓢池)
「僕今犀星先生の世話にて兼六公園の中の三よしと申す御茶屋に居り、豪奢きはめ居り候 十五畳の座敷、十畳の次の間、八畳の茶の間、六畳の女中部屋、四畳半の茶室、台所、湯殿・・・・全部僕のものになり居り候へばそれだけでも甚潜上(はなはだせんじょう)の所、屋を繞(めぐ)つて老扶疎(木の枝葉が広がり茂るさま)、樹間に瓢池を臨み、茶室の外には滝のある次第、風流おん察し下され度候」
小穴隆一(おあなりゅういち):洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物です。)
(水亭の藤棚と翠滝)
三芳庵は、兼六園が一般開放された翌年の明治8年(1875)に、隣にある夕顔亭を管理する為の「本館」とすぐ前の瓢池の畔に浮かぶ「水亭」、そして、今はありませんが瓢池に落ちる翠滝の上に建つ「別荘」の三つの庵を持つことから「三芳庵」と名付けられたといわれています。
(別荘より瓢池)
別荘は、元々加賀藩11代藩主前田治脩公が園内に翠瀧を整備した際、工事を見守るために建てた庵が前身だといわれていました。以来、明治期に3度ほど修理され、皇太子時代の大正天皇がお休みになり茶を飲まれたとも伝えられています。
敷地の広さは約395㎡。建物は約182㎡の木造平屋瓦ぶき数寄屋造りで、部屋には伝説の俵屋宗達の工房で制作されたと言われる杉板戸の絵が、前庭には織部灯籠がありました。
(織部灯籠)
≪三芳庵別荘の取り壊し≫
別荘は、昭和29年(1954)には倒木で建物南側の茶室が倒壊し座敷に改修され、取り壊しの1年前平成9年(2007)には能登半島地震などで土台にがたがきて、老朽化で危険ということから、国の特別名勝「兼六園」内にあるため、惜しまれつつ平成20年(2008)6月20日で営業をやめ、取り壊されることになりました。
(かっての別荘外景)
6月31日には、文学散歩で訪れた文学ファンみなさまへ、三芳庵の新蔵代表が取り壊しを伝えると、「大事な文学遺産をもったいない」「このまま移築して保存できないか」と惜しむ声が聞かれたといいます。
(7月には取り壊し更地にして、跡地は国へ戻されました。)
“ほろほろと 落葉こぼるる 閑古鳥”
高浜虚子三芳庵別荘にて
参考文献:文壇資料「城下町金澤」磯村英樹著 講談社 昭和54年9月15日発行ほか