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板葺き石置き屋根②職人さんの話

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【金沢市内】
30年以上も前、昭和52年4月から4年間。NHKの金沢放送局では、毎月1回金沢の職人を取り上げ「手仕事の心シリーズ」として放送されたそうです。その中の一部を最初から担当された2人のアナウンサーがまとめられ出版された「加賀能登の職人―手仕事の心―」の中に当時73~4歳の金石の”こば板へぎ職人“が取り上げられています。


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(加賀能登の職人―手仕事の心―)


当時すでに“板葺き石置き屋根”は、建築基準法で新築が認められなくなっていて、筆者は、仕事として消滅を宣言された珍しい仕事だと書いていますが、おそらく、この方鈴木伝二さんですが、“こば板へぎ職人”として金沢で最後の人になったのでしょう。


「加賀能登の職人―手仕事の心―」の文章に書かれている鈴木さんの言葉は、今ではあまり聞かない金石辺りのちょっと癖のある金沢弁で懐かしさより、読みづらさが勝る語り口でしたが、この本は金沢の昔を伝えるもう一つの貴重な資料だと思いました。以下いくつか引用させて戴きます。



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藩政期の加賀藩は森林資源を温存するため「七木の制」を布き、材木の伐採を制限し、東北から建築材を移入し、その港を宮腰(金石)に定めました。藩政期の宮腰(金石)には材木奉行ないし板批(いたへぎ)奉行がおかれ、材木の集積地宮腰(金石)は“板葺き石置き屋根”の板へぎの中心地でもありました。


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(湯涌江戸村の復元された石置き屋根)


板屋根には、上等の物はヒノキ科のサワラ、北陸ではヒバ科のクサマキやアテ、マツ科のエゾマツなどが使われていましたが、金石では青森からのクサマキや能登のアテが多く使われてしたそうで、当時、金石で一番いいのがクサマキで、クサマキは表面が腐ったように見えても中は鈴木さんの言葉をかりると「下ぁ、カンカンや」というくらい中は腐っていなかったといいます。


(余談:青森のクサマキの苗を能登に植えるとアテになるとか・・・)


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工法は、鈴木さんが「のこぎりでは、ダッチャカン(不敵)がや!」というように、のこぎりだと木の繊維が切れてしまうそうで、鎌や鉈を使う。鎌で板を剥(へ)ぐと、水はけがよく雨が降っても乾きが早いそうです。


(註;鎌を使うのは、石川県と富山県だけで他の地方では鉈(なた)を使います。)



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(足で押さえて鎌で板を剥(へ)ぐ)



この工法は正倉院の文書にもあり、千年以上の伝統をもつ日本古来の技術で、槌で鎌や鉈(なた)を叩くというシンプルな仕事ですが、職人さんの知恵と腕がモノをいいます。木の繊維が端から端まで損なわなくて、水にも強く、腐りにくく、表面が凸凹しているので、通気性がいいという申し分のない工法ですが、火に弱いということから建築基準法が、この日本古来の技術を消滅させてしまいました。


(板葺きの屋根には上等の“檜皮葺(ひわだぶき)”や“杮葺(こけらぶき)”などがありますが、特別に許可された文化財の建造物や茶室の屋根に葺かれるもので、金沢には匠はいません。トントン葺きともいわれた”こば板へぎ職人”は隣県の富山に今もいらっしゃると聞きます。)



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(兼六園の成巽閣の屋根は杮葺き)


鈴木さんがこの仕事についた頃、金石には板を剥(へ)ぐ人は100人ぐらいで、ほとんど金石の独占的な仕事だったそうです。出職の屋根を葺く仕事より板を剥(へ)ぐ仕事に多くの時間がとられたといいますが、加賀の職人らしいのは「空から謡が降ってくる」のたとえの通り、植木屋だけでなく屋根葺き職人も謡(うたい)を習いに通い、嗜んでいたことが書かれています。



別の古い資料には、石置き屋根用に剥(へ)いだ板は、長さ2尺(60cm)と1尺5寸(約45cm)の2種類があり幅は3寸(9cm)長さのよって割る厚さが違いますが、1寸2分(3,6cm)を8枚に剥(へ)いで、96枚を1束にして、金沢へは背や肩で運ぶのと筏で木曳川を引き登り三社木場に上げたと書かれたものを見たかとがあります。


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(註:96枚1束は、1文銭の「百文さし」の“九六百”に因んだものと思われます。)


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(旧観音町の旧家、昔は石置き屋根でした。)


「加賀能登の職人―手仕事の心―」では、その頃(昭和50年ごろ)の“板葺き石置き屋根”は、瓦葺屋根やトタン葺屋根にする事が出来ない事情があって1年のばしにしている家が多く、鈴木さんは「ちょんまげの仕事ぁ、いまだ(当今)みんなアガってしもうたんや」「ほやろ。ちょんまげのころからあった仕事や。いまだ、なんもないがんなってしもた。ほっと、まぁ、わしが残るのがは、この板剥(へ)ぐがと、石ころの家が何軒あるかぁだけやね。」と、隠居したい気分と、いつまでも仕事をしたい気持ちが半々。

筆者石平光男氏は、貴重な技術の保持者として社会が暖かく見守ってくれれば、鈴木さんももっと張り合いをもって仕事をすることができるのに、と結んでいます。



参考文献:「加賀能登の職人―手仕事の心―」昭和56年11月20日発行・編者NHK金沢放送局・発行所日本放送協会(筆者石平光男氏/久保田宗孝氏)他、金沢市公式ホームページhttp://www4.city.kanazawa.lg.jp/ など


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