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心蓮社の開祖は長氏の生き残り

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【梅の橋→浅野川大橋・心の道】
浄土宗“金池山心蓮社”の開祖休誉上人は、能登の長氏の出だといいます。長氏の始祖は、長谷部信連で、源平争乱のころは、近衛帝、後白河帝に仕かえ、武勇の誉高く、左兵衛尉に任じられました。苦節の平家時代を経て、源氏の世になると鎌倉御家人に列せられ、後、代々能登の地頭職で、その第20代の末裔長続連の第4子菊松でした。


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(心蓮社①)


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越後の上杉謙信の軍に、織田方の長氏、畠山氏等の七尾城に攻めこまられた時、菊松は難を逃れ乳母の助けで城をぬけ出し、石動山から富山の寺にかくまわれ、長じて出家、京都の知恩院で修行の後、京都清浄華院35世となりました。


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(心蓮社②)


心蓮社の由来記には、”夫レ當山ハ慶長17年(1612)賜紫沙門露月和尚コレヲ草創セリ 釈露月ハ能州ノ人、出家シテ京都ヨリ此ノ地ニ来リ寺ヲ建テ心蓮社ト名ヅク・・・”とあり、露月和尚とは休誉上人であり、後の加賀八家の一つとなる長氏の生き残りの一人でした。京都清浄華院35世の後、金沢塩屋町に心蓮社を創建、寛永14年(1637)に現在地に移っています。


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(本堂の唐破風)


寺宝で国の重要文化財「絹本着色阿弥陀三尊来迎図」(現在原本は、奈良国立博物館に保管されている。)は、もとは多田源氏に伝わるもので、源満仲の妻が、わが子が夫満仲に殺されたと思っていたが身代わりの死により生きていたこを知り、失っていた視力が回復したという伝説の阿弥陀三尊来迎図で俗称「目開きの阿弥陀」と呼ばれるもので、後に、禁裏の宝庫に納めたれていたのを休誉上人が、大本山青浄華院退隠のとき、後水尾天皇から拝領されものといわれています。


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(著名人墓石位置図)


境内の築山池泉式庭園「めでた造り」は、先代住職長島善雄氏が書かれたものによると、「この庭は、江戸初期の作庭と伝えたれています。俗にいう「めでた造り」で、桃山風を模したもので、往時、池のみぎわの”柘植(つげ)”を池の中にはわせ、鶴をかたどり、岸辺の“躑躅(つつじ)”は亀をかたどって植込んであり、” 椨(たぶ)”の老樹を背景に雪見灯篭の脚部から、かなた心字池の点と点との間へかけて朱塗りの高欄を配した太鼓橋を架け渡してあったとか、それらは今にその名残の根株や基石等の跡をとどめている。」と書かれています。


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(タブの木・雪見灯篭・三尊仏・心字池・つつじ・・・・心蓮社の”めでた造り”)

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(心蓮社の”めでた造り”②)

上下二段式庭園は、建物に面した山畔を利用して、大小三つの石の三尊仏などの石組や植栽が行われ、下部に池を掘った形となっていて、家の中の座敷から観るという「座観式庭園」と呼ばれるものだそうで、低木442本、樹冠面積1050平方m、緑被率45%、昭和59年には金沢市の樹木の保存指定もされ、今も景観、雅趣に富んでいて江戸時代初期の遠州流庭園の姿を残しています。


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(北枝の墓)
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(蘭更の墓)


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(寺島蔵人の墓)
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(館紺屋の墓)
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(森快安の墓)

墓地は、以前に紹介した俳人立花北枝や同じ俳人の高桑蘭更のお墓の他、著名人の墓では、奉行などを歴任し、後に藩に直言し能登島に配流客死した寺島蔵人とその一族のお墓、紺屋の館紺屋、加賀藩の医師森家、藩の賄方で“生きつくりの名人”中屋次右衛門のお墓もあります。


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(門前のお地蔵さん)


五体あるお地蔵さんのうち、歯痛の地蔵尊は向って左側で、明治の初めに、この地蔵にあやかって近くに住む尼さんが、歯痛止の護符を配っていたといいます。


参考文献:「心蓮社」由来記・平成18年改訂版・心蓮社発行など


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