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宇多須神社“節分”と昔の芸妓さん

【梅の橋→浅野川大橋】
2月3日(日)午後この時期には珍しい青空に誘われて、散歩がてら宇多須神社の“節分祭“に行って来ました。神社の振る舞い酒を一杯いただき、昼酒にほろり、酔い覚ましに街を一廻りし、休憩館にも寄り、”節分祭“の30分前に境内に行くと、すでに見物客が大勢集まっていました。


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市民が見つける金沢再発見

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(芸妓衆の踊り奉納)
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(笛の奉納)


少~しづつ前進して拝殿近くに辿りつき、お祓いの2時には好位置キープ。2時半からの笛、12人の芸妓衆の音曲や踊りを間近に見る事が出来ました。踊りが終わると神主や町の世話役、芸妓衆で、袋入り福引付の豆が撒かれました。


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(豆まき)
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(大観衆)
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(下の境内の豆まき)


いつもは下の境内で撒かれる豆が、今年は、お客様が余りにも多かったためか、はじめに階段の上の見物客に、それから下の境内で豆撒きが行われました。


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(袋入りの3,000個が撒かれた豆、ゲット)


宇多須神社は、養老2年(718)に卯辰治田多聞天社として卯辰山の一本松付近に建立され、その後、慶長の頃、現在の宇多須神社(前社)の隣に移り、藩政期は“毘沙門さん”として親しまれ、卯辰山の旧社を奥宮としました。


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(卯辰山の宇多須神社奥宮)
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(奥宮の解説)


前田利家公の死後、二代利長公は利家公を金沢に祀るにあたり、諸々の制約から前田家では公然と利家公を祀る社の建立が出来なかったため、金沢城の鬼門の方向に鬼門鎮護の社として、今の宇多須神社の地に、越中守山の八幡宮と阿尾の榊原神明宮を移し、利家公の霊を合祀し卯辰八幡宮を建立しました。


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(藩政期、加賀藩士は佳節や毎月1日、15日登城の後、直ちに参拝することが義務づけられたといいます。)

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(現在の宇多須神社)

明治6年(1873)利家公の霊は、金谷御殿の跡に名を尾山神社と改め建立された社に遷宮され祀られると、“毘沙門さん”は卯辰八幡宮の跡に移り宇多須神社(前社)と呼ばれるようになりました。



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(奥宮の辺りより市内を見る)

(宇多須神社のご神体は、毎年6月の春祭りが終わると「お上がり」といって奥宮に、9月秋祭りの前に「お下がり」といって前社に移る神輿渡御の神事があります。)


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(当日の振る舞い酒)


話を“節分祭”に戻しますと、昔、何とも愛しい“ひがし茶屋街の芸妓”の節分の話を何かで読んだことがあります。小唄にまで唄われた名物芸妓で、明治の侠妓といわれた“江戸屋の黒てつ”と呼ばれた芸妓にまつわるお話です。


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(現在のひがし茶屋街①)


その頃、節分では、「お化け」といって芸妓が仮装をしてお客様を迎えたといいます。江戸屋の“黒てつさん”も仮装でお座敷へお出ましになったと書かれていました。当時、人気の芸妓の仮装が、何と普段出来ない“丸髷に割烹着”という、そのころの主婦の定番の衣装だったそうです。


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(ひがし茶屋街②)

“家庭の主婦の衣装“が芸妓さんの夢だったのでしょうか・・・。
それでは、お客様は里心が付かなかったのでしょうか・・・?
今の私などは、その頃のお客様とは随分感覚が違うのでしょうか・・・。


勘ぐりですが、下心?い~や昔のお客様は、懐が深くて、芸妓さんのすることは一緒に喜び楽しめたのでしょう・・・ョ。
”うしろめたさ“を感じてしまう私などは、ヤッパ下種なのでしょうネ。


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(ひがし茶屋街の格子と節分祭のポスター)

そうそう「江戸屋」について、もう一つ、以前に本で見つけて、メモっていた話を付け加えて置きます。先代は有名な相撲興行の勧進元、そして“ひがし茶屋街”の江戸屋楼主で、金沢の火消しの組頭だったといいます。野々市の田尻の出身で、江戸に出て阿武松から千賀の浦の弟子で関取まで進んだ横雲八五郎という相撲取りだったといいます。



土付かずの勇壮無比といわれる讃岐丸亀公のお抱え力士だったといいますが、腕を痛めて引退して、金沢に帰り“ひがし茶屋街“の取締りとして、ひがし界隈で重きをなしたという任侠心に富んだ人物だったと伝えられています。



また「江戸屋」の2階の広間の長押に、幕末の書家市河米庵が揮毫した「苛月楼」の額があったといいます。店の東にある卯辰山の山頂にのぼる“月”を“荷って”建つ“楼”という意味で、背負って建(立)つということでしょうか、一時は「江戸屋」は他に「江戸菊」「江戸芦」など9軒ものチェーン店があったといわれています。


(市河米庵:幕末の三筆といわれた、書の流派江戸唐様派の大家。文政4年(1821)に家禄300石で前田家に仕え、江戸と金沢を往復し指導にあたりました。)


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(それにしても昨日は大勢の人出でした。)


参考文献:監修藤島秀隆・根岸茂夫「金沢城下町」平成16年北国新聞社発行ほか


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