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放鷹術(ほうようじゅつ)!?

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【金沢城三ノ丸広場】
昨日、今年で3回目の鷹匠による放鷹術(ほうようじゅつ)の実演が行われ、2回目ですが金沢城三ノ丸で見てきました。加賀藩では鷹狩が歴代藩主により百六十回も行われたらしく、3代藩主利常公の時代には卯辰山でという伝説もありますが、鷹狩りの主な行き先は越中の砺波野や加賀では大豆田、七ツ屋、粟崎などで、藩主が鷹匠によって調教された鷹を使って狩猟をしたと伝えられています。金沢城での実演は、鷹狩りではありませんが、その歴史を踏まえたものだそうです。



(放鷹術いよいよ開幕)


(1回目は平成26年(2014)2月9日雪の中新丸で、2回目は平成27年(2015)2月22日曇り空の三ノ丸、3回目になる今年は快晴、2月28日に開催されました。今回も全国から集まったNPO法人日本放鷹協会の鷹師、鷹匠、鷹匠補の皆さんが演じました。)





(鷹匠の技)

鷹狩は、大昔、中央アジアで始まり、日本書紀によれば日本でも4世紀に仁徳天皇によって公的な鷹狩専門の部署が設けられたそうです。時代を経て高貴な人々が親しみ徳川将軍家など時の権力者の庇護を得て途絶えることなく維持されます。藩政期は、各藩では軍事演習(戦争ゴッコ?)として盛んに行われています。



(鷹が頭の上をかすめて木に・・・)


(加賀藩にも多くの記述が古文書に残っています。また、鷹を扱う“鷹匠”や餌を集める“餌指”などが住んだという町も書かれていていましたが、昭和の町名変更で消えてしまいました。)




(飛んでいるのが難しくてななか撮れません)


藩政期の鷹狩は明治維新で途絶えますが、明治に入ると明治天皇が「千6百年の伝統を残せ」とのひと言で、鷹匠や鷹場の制度が復活し宮内省式部職となり、戦前までは宮内省(庁)式部職で鵜飼と同様に国家公務員の鷹匠もいましたが、戦後、宮内庁が実猟は中断し、幕府や宮内省鷹匠の技術は、退職した宮内省(庁)鷹匠により民間有志に伝えられ現在に至っているそうです。




(会場案内看板)

今回、実演に参加した鷹は、日本放鷹協会のパンフレットによるとオオタカ・ハリスホーク・ラナーハヤブサ、その他ベンガルワシミミズクなどだそうで、技は、鷹匠の間を行き来する「振替」・空中で疑似餌を捕獲する「振り鳩(ふりはと)」など、上空を旋回し大きな翼を広げて舞い下りる姿が見られ、頭をすくめたりハラハラしたりとスリリングを楽しみました。





(観客と放鷹術と子供)

子供の頃の隣町に中鷹匠町や上鷹匠町がありました。調べると明治4年(1871)に町立てされ、明治19年(1886)に藩の御鷹部屋があった下鷹匠町は出羽町1番丁から3番丁を含めた五万余坪が出羽町練兵場になり、民家かないのでだれも下鷹匠町とは言わなくなったのでしょう?




(安政年間の古地図より)


(藩の御鷹部屋は、寛文2年(1662)に浅野川辺りからお城の近くのこの地に移り、安政期(明治の10年前頃)の古地図にも載っています。)


(戦前昭和の地図・出羽町5番丁の隣に中鷹匠町があります)

全国の城下町だったところには今も幾つか鷹匠町が残っていますが、金沢では、昭和の町名変更で鷹匠町は消えてしまいました。金沢城の「放鷹術の実演」は、私に隣町だった鷹匠町を思い出ださせ、さらに藩政期をも偲ばせてくれました。



(ベンガルワシミミズク)


参考:NPO法人日本放鷹協会「諏訪流放鷹術」ほか


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