ひがし茶屋街今昔⑤昭和初期
【ひがし茶屋街】昭和初期のひがし茶屋街は、一番丁から4番丁までの戸数は123戸、男子109人に対し女性は530人と圧倒的に女性が多いのですが、その内芸娼妓については、手元にある資料では定かではありません。因みに慶応3年(1867)に再開された当時は戸数112戸、芸妓119人、娼妓164人、遠所芸妓45人に舞妓が居たと記されています。...
View Article美術工業って!?
【明治の日本では】明治政府は、経済的基盤の確立が急務でした。そして国家権力で「上から」による殖産興業政策を推し進めました。今さらいう事でもありませんが、その一翼を担ったのが、生糸や茶と並び銅器、陶磁器などの工藝品の輸出を前提とした産業を奨励します。...
View Article私、金沢城でテレビに・・・
【金沢城】今年は暖冬と言われ正月から雪のない金沢でしたが、やっと待ちに待った雪が降り出しました!!雪吊りが施された唐崎の松や木々の緑に白い雪が薄っすらかかる冬景色が、兼六園を美しく演出してくれます。金沢城では、この時期ならではのさらさら雪が石垣に“きんつば”の白い薄皮のようなオイシイ?風情を醸しだします。 (雪の兼六園唐崎の松)...
View Article伊万里焼古九谷様式って?
【旧加賀国江沼郡九谷村】平成21年(2009)の「金沢大学考古学紀要30“九谷遺跡出土品から探る九谷色絵”」によると、九谷には亡命中の中国明の陶工を連れ帰ったという伝承はなく、有田陶工が大聖寺藩によって九谷に招かれたときに色絵工人も同道したと思われると記されています。...
View Article明治の金沢工藝②銅器会社の終焉
【旧長町川岸】銅器会社は、政府の殖産興業政策に対応したものですが、これといった産業がない金沢の「工藝の産業化」であり、明冶維新で仕事を失った藩の御用職人や細工所御細工人の救済と失業対策に大きなウエイトが置かれモノと思われます。 (御細工所は、宝暦の大火以後、今のしいのき迎賓館辺りに移転します。)...
View Article明治の金沢工藝④水野家の意匠!!
【金沢・京都】加賀藩では、後藤家の番頭役としての水野家は初代以来、白銀細工御用を承り御用は御細工者の仕事内容で処遇は同じでした。4代目から最後に家名源六を継ぐ10代目まで養子が続きます。白銀細工は高度な技術が求められ、養子は、弟子筋で義父が存命中に御用を仰せつかり、先代没後、家名を相続しています。...
View Article金沢の金属工藝①大正から戦前の昭和まで
【金沢市】大正期の金沢の金属工藝は、ほぼ工房制で親方が技術者で意匠家(デザイナー)そして経営者として注文を取り、多くの徒弟と下請職人を抱え製造・販売を行っています。10代目水野源六は銅器象眼鋳造販売を長土塀4番丁で工房を構えています。銅像を得意をとし、他に建築金物等を受注生産していました。藩政初期から続く茶釜の宮崎寒雉は彦三1番丁に鉄瓶を始め鋳造・販売の工房を構えています。...
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