【金沢・高岡町界隈】
前回の銅器会社を辞職して独立した水野氏は、8代目水野源六光春で明冶12年(1879)魁春堂という工房を起こします。水野家についてはいずれ書きますが、8代目は明治9年(1876)設立された銅器会社では職工棟取として、同年には、大蔵省から3,000円で加賀象眼大花瓶の注文を受け、その後も、宮内省からは常にご用命を受け、皇居内御所の造営に際し、引き手釘隠し、金具等各種金工作品の御用命に預かります。退職の事情については今となってはよく分かりませんが、銅器会社設立から僅か3年で藩政期の職工を多数雇い入れ独立します。
(藩政期に拝領の高岡町の家屋敷は明治3年(1870)頃、8代目によって売り払われています。因みに、明冶3年(1870)2月御細工者の役料がこの年から差し止めるというお触れが出たこともあり、職人衆への支払いに窮したものとも考えられますが、8代目は腕が立つだけではなく、肝の据わった人物で有ったようですから、大きな仕事をするための計画的な売却であったとも考えられます。)
(藩が消滅し明冶維新が・・・)
8代目は、廃藩置県、そして廃刀令といった刀剣装飾の御用も勤めた御用職人にとって存亡の危機で、かってないこの激動の時期に、これまでに培った御用職人としての経歴と多くの高級品をこなしてきた実績で、工房経営者であり職人集団の統率者として、また、ディレクターとして手腕を発揮しています。
(8代目水野源六の絵図面)
また、初めて宗家後藤家の支配を離れて、ディレクターとして本来の腕を振るったともいわれます。例えば旧藩時代には考えられもしなかった大型の象眼作品を受注していることからも推察できます。下地は銅器鋳物で、加飾には平象眼が施されものが多く作られています。
(金工技術のイメージ写真)
これは、丸彫ほど名人芸を必要とせず、多数の職人に仕事を与えるという意味を持ち、分業が出来るようにしたようです。また、水野家は藩政期白銀職棟梁役を仰せつかっていますが、象眼も駆使し黒地に銀を主体としたものから、輸出を考えたのか金属を埋める色金と鎧象眼手法で、色彩効果を高め、鋳金、鍛金、彫金など、金工技術を熟知しものならではの技が駆使されています。
(参考文献、黒川威人編のホワットイズ・金沢)
そうはいっても資金繰りは厳しく、明冶23年(1890)に8代目源六光春に宛てた、後に9代目になる養子の書簡によると、”職人の作料は払えないばかりか、日々の小遣いにも困る“と書かれていて”ひたすら東京からの送金を待つ“と有ります。これは8代目が業界の苦境を打開するため明冶23年(1890)の秋、東京に魁春堂の支店を設け、全国へ、また、海外への販路を求めていた事が分かります。
(余談ですが、この書簡には、養子(後の9代目)が母親たちの上京に際し、8代目源六光春の弟弟子にあたる泉清次(政光・泉鏡花の父)の懇願により、その一行に後に泉鏡花となる泉鏡太郎を加え便宜を図ったことが書かれています。)
魁春堂東京支店の開設は、水野家の一種の博打であり、賭けだったようで、詳しくは資料がないので分りません。8代目が明治28年(1895)58歳で亡くなった後、9代目源六光美が後を継ぎ、それなりに成果もあげ、大正時代になると水野家は持ち直したようです。9代目は、大正8年(1919)2月11日に金沢金属業者の組合を設立し業界に尽くした功により県から表彰されています。
(つづく)
参考文献:「金沢学④ホワットイズ・金沢」黒川威人編・発行所|前田印刷株式会社出版部・平成4年(1992)発行