【金沢・京都】
加賀藩では、後藤家の番頭役としての水野家は初代以来、白銀細工御用を承り御用は御細工者の仕事内容で処遇は同じでした。4代目から最後に家名源六を継ぐ10代目まで養子が続きます。白銀細工は高度な技術が求められ、養子は、弟子筋で義父が存命中に御用を仰せつかり、先代没後、家名を相続しています。
4代目の頃からは武家社会の中に組み込まれたことから苦難の時代に入り、藩財政はその頃から窮乏します。水野家では、家名は相続しても扶持を受けるのに、かなりの年数を経たという時代が続き、7代目は苦節のあと白銀職御用棟取役を仰せ付かり、幕末に、白銀職御用棟取役を8代目に引き継がれます。
(水野家は初代以来、宗家後藤家の番頭役で、自ら後藤風を破るわけにも行かず、それゆえに格式や故実に明るく、格式ばった仕事が主で前田家以外の家臣団の仕事を多く請け負っていたそうです。)
明治維新。8代目源六光春は、後藤家の支配から離れることが叶います。それまでは後藤家の支配下で藩御用の製品は、強く古式、格式を守ることが要求され、意匠は一定の枠を外すことが許されなかったのが後藤家の支配を離れることで、自ら意匠を考え、それを描き、職人に指図することになります。また、銅器会社の棟梁として時代を敏感の感じ取っていたものと思われ、藩政期の古臭い意匠から、海外にも通用する新しい意匠の創作が必要と考えるようになったものと思われます。
(金沢学④ホワットイズ・金沢)
9代目源六光美は、養子縁組は決まったのち水野家の援助で明冶15年(1882)から18年(1885)まで、京都画学校に留学しています。幕末、白銀細工棟梁を勤め、明治に入り銅器会社の棟梁もした8代目の考え方が活かされます。後藤家の後ろ盾がなくなり、これからは優れた絵を描くことが棟梁としての第一条件だと考えたのでしょう。9代目は画学校で、日本画を専攻し号は玉嶂、師は四条派の望月玉泉であったといいます。
(海外の万国博では、国の対面からか、量産品より仕上げの精巧さや意匠の気品に重点がおかれ、そのため加飾の意匠はすっきりした構成の四条派など大和絵系統が重用されていたらしく、9代目の遊学はその状況を見越していたものと思われます。)
9代目源六光美は、明冶28年3月に先代の死去の伴い家名を相続しますが、昭和13年3月(1938)70歳で死亡するまで、加賀象嵌は最盛期を迎え、やがて晩年には長期低落期に入りますが、この間、工藝は美術としての工藝と、産業としての金属工業(工藝)に二分化され、国の富国強兵策とともに金属工業に比重が置かれ、世の中は不況から高級嗜好品の加賀象眼は、その存立基盤を失い、9代目の業界での指導力の限界を超えていきますが、水野家は彫刻家でもあった10代目に引き継がれていきます。
≪参考≫
「町の踊り場」と10代目水野源六
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10619354251.html
参考文献:「金沢学④ホワットイズ・金沢」黒川威人編・発行所|前田印刷株式会社出版部・平成4年(1992)発行